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それは二階建てのそんなに大きくない寮でした。ここら辺の私立学校に地方からやってくる子供が長期で住んでいて、大抵、裕福な家の子供達です。 六、七人くらいの子供が一人ずつ部屋を与えられていました。先生はそこの寮父です。基本的にその寮を彼一人で運営していました。キッチンとか、談話室とか、風呂場とか、あと先生が寮を運営するにあたる事務的なことをしている部屋も一階にありました。二階が子供の部屋です。ウスルはこの寮で一番新入りで、年齢的にもひよっこで、13歳でした。そんなにいろいろうまくやれる気質ではありません。きて日も浅いから、とかではなく、人と仲良く馴染むのはいままでだってこれからだってウスルにとっては難題です。理由はわからないけれどいままでの人生では、周りからあまりよくは思われてはきませんでした。ちょっとした気後れを感じることが多く、寮でも、話せる友達も二人しかいません。これから入寮するという日に先生に建物を案内された時の、先生の穏やかさ、優しさは、心細くて不安だったその時の心にすごく暖かいものでした。先生はウスルの気質みたいなものによって他の子と差別したりすることもなく接してくれます。最初だけじゃなく今だって穏やかで優しくて、好感を持っていました。なんとなく、不思議な感じのする人で、何を目指して何を勉強したり、経験すれば、先生のような人になれるのか全く見当がつきません。とても賢そうに見えます。静かな雰囲気を持っていて、いつも少しだけ微笑んでいるような優しげな表情はしているけれど、そんなに屈託無く笑う人ではありません。だから先生に話しかけたり何かを報告したりして、いつもより笑ってくれた気がした時には、なんだかとても嬉しくなって、その日が特別な日になりました。なので別に何もなくったって、沢山話しかけたかったのですが、みんな同じように思うのか、ちょうどお話がしたいなと思う時に限って、誰かが先生と話をしているのです。そういう時は先生と他のみんなとの絆が深く見えて、新しく入った自分なんかが、という気になってしまって、ウスルは先生と話す機会をなんとなくいつも逃してしまっていました。けれどある時、何日間かの間にめずらしく、食事した後にちょうど出くわしたとか、先生が用事していることが少なかったとか、誰かが帰省していたとかで先生と少しずつ、話す機会に恵まれて、今までより仲良しになってきたなと思えた時がありました。そういうことがあった辺り、もっと話したくて、お迎えに行きたいと思ってそれを実行しようとしたことがあります。お迎えに行って一緒に帰れたら、とても素敵に思えました。その日は先生が出かけているのを知っていたので、勇気を出して電話をしてみました。長く呼び出し音が続いて、もう出なそうだなと諦め掛けていた矢先、先生の落ち着いた、もしもし、という声がしました。その後少し置いて、どうしました、とつづけました。あたりまえなのですが、それが本当にいつもの大人の男性らしい先生の声で、緊張してしまい、吃ってしまって、吃ったことで余計に緊張してしまいました。それでも先生はやっぱり穏やかに、ゆったり待っていてくれて、それにまた暖かく安心して、なんとか、お迎えに行ってもいいですか、というそれを伝えることができました。どうやら先生は今寮生の一人と一緒にいるようで、それをウスルに伝えた上で、それでもよければお願いしますと言いました。けれどその寮生の名前が出た時点で、やっぱり自分なんてという気持ちがふくれ上がって、やっぱりいいですという旨を伝えました。切った後に、気をつけて帰ってくださいくらい言えたらよかったな、とも思って、また少し寂しくてやるせないような気持ちになりました。それからそう日もたたないある日、諦められるような感覚じゃなかったので、二人だけいる友達の内の一人、一個上の女の子に、先生ともっと仲良くなりたいとか、お礼がしたいようなニュアンスのことを相談しました。じゃあ、先生にプレゼントをしたら、きっと喜ぶと思うよと提案されて、次の日にそのままの気持ちで、おこづかいをなるべく多めに持っていって、プレゼントを買いに行きました。日頃のお礼としてわざとらしくない程度に、けれど特別だって気持ちがこもるようなものをあげたくて、黒と灰色の、斜めにツートンカラーになった、畳むとデザインチックな印象になるハンカチを買いました。自分にとったら高価な買い物でしたが、先生が喜ぶといいなと思って。そのプレゼントの箱を持って、いつ渡せば適切かを考えながら、寮に帰りました。帰ると談話室にもう一人の友達がいて、その子が自分に気づいて、話しかけてくれました。彼は革ジャンと洋楽が好きな、よく笑う男の子で、一つ上の年齢でした。特別話があうというわけではありませんでしたし、金銭感覚が徹底的に合わなくて、話していて驚くことも多いのですが、この子はウスルの、どこか他人に煙たがられる雰囲気を全く感知しないところがあって、気兼ねなく話せるのでした。先生にプレゼントを買ってきた、喜んでくれるかな、ということを彼に話したら、彼はいつも通りのあっけらかんとした明るい話し方で、プレゼントなら高いものだろう、高いものなら嫌がるわけないよ、みたいなことを言いました。高価なものを買ったつもりだったのですが心配になって、その子にどのくらいだったら嬉しいかな、と聞いてみると、自分が買ったプレゼントとは桁が二つくらい違う数字を言われて、急に、すごく、そのプレゼントを渡すことに、気が引けてしまいました。そのまま部屋に戻ってどうすべきか悩んで、お手洗いでもお風呂の中でもずっと悩みました。それでもやっぱりどうしても渡したくて、渡すことに決めました。サプライズで渡すのは恥ずかしいというか、きまりが悪い気がしたので、あらかじめ電話で呼び出すことにしました。焦る気持ちで、先生に渡したいものがある旨を電話で伝えると、先生は今談話室に一人でいるようで、渡しに行っても構わないようでした。そのままプレゼントの箱を持って、部屋から駆け下りて、先生のところに向かいました。先生は談話室の椅子に、特別何かをするでもなく座っていました。自分の気配を察したのか、扉の空いているところからこちらを見ていて、扉を開ける動作が必要じゃなくったって、談話室に入るのに、今までで一番、緊張しました。座っている先生に近付いて、なんて言って渡したらいいかわからなくて、プレゼントしたくて、とかしか言えませんでしたが、それを先生に差し出そうとしました。ただ、その時の先生の表情とか、受け答えが、なんて言えばいいのかわかりませんが、金型で押し出したみたいな対応でしかなくて、だから何だとか、嬉しそうにしてほしかったとか、そうじゃないけれどなんだか、何故か、馬鹿馬鹿しいような気がした?なんとも言えない気持ちになって、そのままそれをあげられなくなりました。口から、やっぱり、いいです、ごめんなさい、と言葉が出て、そのままプレゼントを引っ込めました。そのまま泣くでもなんでもなく俯いていると、談話室のちょうど、棚で死角になっているところにいたらしい女の子が、そりゃそうでしょ、みたいなことを、呆れたみたいに、独り言みたいに、ウスルに言いました。この人は寮生で一番年長の女の子で、ウスルより3つほど年上でした。ウスルが初めて寮に来た日、寮まで案内してくれたのがこの人で、先生のことが大好きなんだろうなというのが傍目にもわかるくらい献身的に、寮生の面倒を見たりといった、先生のお手伝いをしていたりする人です。お迎えに行きたいと電話した時も、きっとまたこの人がいるのだとわかって、やめにしたのでした。その言葉に異様に傷付いて、自分の愚かさを自覚させられたような気がしました。そこにはいられなくなって、自室に逃げるように走って、閉じこもって、鍵をかけました。別に追っかけてほしくなんて全然なかったのに、先生は追っかけてきて、何が悲しいのかわからないけれど、ますます悲しくなりました。ノックの音がして、どうしたんですか?ありがとうって、言ってるじゃないですか、といつもの穏やかで優しい声がして、でもそれだって、決まりきった反応みたいだと感じさせる声で、先生を制止するみたいに、あの女の子が、ひとりにしてあげたほうがいい、そういったことを言っているのも、聞こえました。プレゼントが、安物だったからかもしれません。自分からのプレゼントなんて、嬉しくないのかもしれません。先生の態度とか女の子に言われたこととかに、怒ったわけじゃありません。期待した自分が愚かに思えて、自分が心底嫌になったのです。惨めでした。渡そうとしてたときは、自分が先生になにか、期待してるなんて思わなかったのに、実際に自分は、落胆しています。自分は何を思い上がっていたんだろう、何度も思いました。先生は寮のみんなに好かれているし、寮のみんなは自分とは比べ物にならないくらいお金持ちだったりします。あの、年長の女の子もとてもお金持ちで、あんなに献身的で、あんな子が近くにいるのを思うと、自分の介入する余地なんかあるはずなかったのです。自分の気持ち程度なんの価値もなくて、先生にとって、なんにもならないのです。だからあんな対応を、されたのです。あまりに自分がどうしようもない存在に思えてしかたなくなって、先生が部屋の前から行ってしまった後、友達の、プレゼントしてみたらと言ってくれた女の子の部屋にかけていって、入れてもらって、そこでわんわん泣いてしまいました。その子はいつも相談に乗ってくれるようにその時も優しくて、先生はみんなの前だから、平等にいようって思ったら、素直になれなかったんじゃない?とか、そうかもしれないって言えるようなことで慰めてくれました。先生はごく普通の一般的な、限りなく正常な反応をしたのだと思います。それでも傷付いて、小さな怒りを先生に感じましたが、その自分勝手な怒りこそ許せなくて、その結果で悲しくなるのも勝手なことだから、その悲しみも許せなくて、悲しみに怒りが湧いて、湧いた怒りに悲しくなりました。勝手な思い上がりで勝手に傷ついてなんておろかなんだろう、先生への怒りよりもその気持ちの方が強くて、自分がますます嫌いになりました。大方泣いて、慰められて、もうありがとうと言って、女の子の部屋から出るしか選択肢がなくなった頃、いつもより少し、寝るには遅いような時間になっていました。自分の部屋に帰っても、ベッドに入っても、考えるのをやめることはできませんでした。好きだから、喜んでくれたら嬉しいなって気持ちでプレゼントしようとしただけで、もっと深い関係になろうとか、抜け駆けしようとか、そういう気持ちでプレゼントしたわけではありません。特別扱いされたいって思ったわけじゃないけれど、心をふれあわせたかったのです。なのに、先生と自分の間には、ああ、これは越えられない、そんな壁がありました。最初から、この壁の向こうへ行く権利すらなかったのに、何を思い上がっていたのでしょう。今まで優しかったのだって優しかったんじゃなくて、きっと優しさのテンプレだったのです。次の日、先生を避けました。その次の日も先生を避けました。先生がそんな自分を見ている気がして、逃げ回りました。先生が何かした訳ではないけれど、一度目を合わせられなくなったら、もう二度と、お話もできないような気持ちになりました。

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2

不思議なことに会わないように気をつけてみると全然先生には会わずに済みました。姿を全く見ないわけじゃないけれど、話す必要はありませんでした。今まで自分がいかに、先生を探して、お話しようとして生活していたかに、こうなって初めて気づきました。結局プレゼントのハンカチは、廃棄もできず自分で使うこともできず、そのまま引き出しにしまってあります。見ると悲しくなるので、引き出しを開けることもしませんでした。先生を避けている自分のことを、友達二人ともが全く気にしなくなった頃のある日、先生に急に、応接室に呼び出されました。先生の方から近付いて、それから反射的に逃げようとしてしまったウスルの肩を掴むみたいに引き止めて。真正面から見下ろされて、「今日の四時、応接室に来なさい」と言って。その時の先生は微笑んではいませんでした。かといって怖い顔もしていませんでした。けれど、何も言えないでいる自分に、「お返事は?」と言って目を細める先生は充分過ぎる程に怖くて、思わず小さくはい、と返事をして、頷いてしまいました。ほぼほぼ、おとがめがある時にしか寮生は応接室には呼ばれないので、友達二人に何したのお前、みたいな目をされながら、応接室へ向かいました。自分にもわけがわかりませんでした。かといって、はいと言ってしまった手前、すっぽかす勇気は出ませんでした。応接室では、時々保守管理を頼んでいる整備士のような人たちと先生が談笑しているのとか、見学に来た家族を先生が接待しているのを、見ることがあります。先生が自分たちのような生徒以外と話しているところを見るのはなんだか新鮮な感じがして、そういった応接室の扉の向こうでの姿がなんとなく、気になってしまったものでした。今はもちろんそれどころではありません。応接室の扉を開けると、客間として使う為に配置されているセットのソファのうちの一つの二人がけのものに先生が腰掛けていましたが、ウスルを見るなり彼は立ち上がり、自分が座っていたところにウスルを誘導したのち、扉の方に向かい、鍵を内側から閉めました。いつも開けっ放しでお客さんとも話しているのに。そのあと彼は低めのテーブルを挟んで正面に座りました。久々にきちんと見た先生はやっぱり素敵でしたが、なんだかいつもと違う笑い方をしているように見えました。とても怖くて、縮こまりました。ずっと後回しにしてきて、いつか何かが変わって、全部平気になる日が来るって信じて避けてきたものに、無理矢理対面させられているような気分です。「怒ったり叱ったりする為に呼び出したんじゃないよ」話しながら姿勢を崩して足を組む先生は、なんだか先生じゃないみたいに見えました。ウスルが知っている先生は、こんなに執拗にウスルの目を見つめたりしません。いつも、ウスルが緊張しないように、目を逸らしてくれたり、不安な時は、目を合わせて笑ってくれたり、優しく待っていてくれるはずでした。「私は、ウスルくんとは一番の仲良しになりたいって思っているんです」ウスルは、何も反応を示せません。低い机を見つめて、きゅっと小さくなったような姿勢で座っているだけです。二人しかいない応接室は静かで、部屋の端にある冷蔵庫の稼働音が、やけに大きく聞こえます。「君もそう思ってたから、これをくれたんでしょう?」ずっと俯いていたけれど、軽いものを置く音がして、言葉と音の意味が一瞬わからなくて、怖いことが起こっている気がして、見ないようにしていた先生の方を見ました。何故か、おかしなことに、部屋の引き出しに眠っているはずのプレゼントの箱が机にあって、その中身であるはずの、先生のために選んだ、あの日以来見ることもできなかったハンカチが、先生の手にあったのです。一瞬パニックになって、恥ずかしくて、ちがうんですと言いたくなって、それをとりあげたくなって、隠したくなって、腰を上げて先生の方に手を伸ばしかけました。ですが、「誰が立って良いなんて言いました?」と言われて、その目線が、とてもとても静かなのに、殆ど睨んでるのと同じくらい鋭かったから、もう、おとなしく座っているしかできなくなりました。腰を元の位置に落ち着けて、先生の手にあるハンカチを、どうすれば良いかわからない焦燥感の中見つめるしかできなくなりました。「だってこれ、私のものじゃないですか」「プレゼントしたいって、言ってくれたよね?」先生は左手に乗せたハンカチに、右手を添えるように愛しそうに撫でて、箱の横にそっと置いて、もう一度愛しそうに、目線を落として、ハンカチを撫でました。愛しそう、なんて表現できる先生を見るのははじめてで、先生の個人的なところにはじめて触れたみたいで、どうしようもないくらい心臓が跳ねました。何故、どうして、先生が、それを持っているのかわかりません。どうして、嬉しそうなのかもわかりません。状態としては声が出ないに近かったのですが、どうしてそれを、と聞く声は、なんとか絞り出すことができました。「君の部屋にあったから」先生は悪びれもなく答えました。あまりに当たり前のようにそう言うから、先生の言ってることがおかしいということにも、気付きませんでした。「あの時は私の態度にショックを受けたんでしょう?」先生はそう言ってまた、机の上のハンカチを少し、触りました。先を揃えて繊細に動く指を、長くて、綺麗だと思いました。ウスルは混乱する気持ちの中でも、先生の体の目に付いた一つ一つ、初めてこんなにちゃんと見ることができてる、それを心のどこかで感じて、無意識に見つめてしまう自分を、心の別のところで否定していました。「君のこと、特別扱いしてるってバレたら困るから」先生は内緒話をするように話します。特別扱いなんて言葉が、どうしてここで出てくるのかわかりません。自分が知ってる先生だったら、特別扱いしてるなんて言葉、口にしません。もちろん、自分にも言いません。目の前の先生は個人的で、きっぱりとしていました。けれど、何故、自分に対して、個人的になって、きっぱりしていてくれているのかが、ほんとうにわかりません。「プレゼントひっこめた君の気持ちとか、私のこと避けてる君の気持ち想像して、すごくかわいいなって思ってたんですよ」少し笑っている先生が何を言っているのかわからなくて、自分がどんな気持ちになればいいのかもわかりません。もしかしたらこの人は、ウスルの知らない側面をたくさん持っている人なのかもしれません。自分に興味なんてないんだろうって思っていた先生が、自分の話をしているらしいのが、どこか遠い世界の出来事のように聞こえます。ウスルの混乱を知ってか知らずか、先生はくすくす笑っています。もっと笑いたいのを、抑えているみたいな表情です。子供のおかしな行動を、笑うみたいな感じです。はじめてそんな笑顔を見ました。からかっているのかもしれません。子供扱いがいやだとか、そういうのじゃないけれど、ものすごく悲しかったいろいろとか、ものすごくむかむかしたいろいろとか、それを笑われている気がして、わかってないくせに、と怒りが湧いてきました。あきらかにわがままで、自分勝手なことでむっとしているのはわかるのですが、むっとするものはします。ウスルよりなんでもわかっているかもしれないけど、ウスルのことなんて、この人にはわかりっこありません。「私のことが憎らしい?」先生は、なぜか嬉しそうにそれを聞くのです。 頷いてやりましたが、それでも嬉しそうにしていて、余計に憎たらしく感じます。しかも、じゃあ私のことパンチしてもいいよみたいな、男の子を馬鹿にしてからかうようなことを言うので本格的に腹が立って、我慢できなくなって、そういうんじゃない、と言いました。そして、先生に私の気持ちなんてわかりません、と言ってしまいました。思っていたよりもしっかりした声が出ました。自分がそんなこと言えるなんて思ってもみませんでした。感情の勢いでのことではありましたが、呼び出されてから、ずっと底が知れなくて恐ろしいって思っていた先生に反抗みたいなことをしてしまった怖さで、また心の一部がしゅんとしてしまって、俯きました。先生が、そんなこと言った自分のことをずっと見ていて、見られてるのを意識しないでいることができなくて、段々と自分が、何を言ったかもわからなくなりました。「君は君自身のこと、本当は私って呼ぶのかな?」「いつもは、無理して、俺って言ってるの?」先生のその言葉で、一人称の、治そうとしていた、隠したい癖が出てしまっていたらしいのに気付いて、また感情が急に動き出しました。知られたくないことばかり知られたくない人にあまりにいっぱい、突然知られて、このまま消えちゃいたいくらいの気持ちになって、泣いてしまいました。涙が止まらなくなってしまいましたし、先生は泣いてる自分を見てにっこりしているし、本当に、ものすごく憎たらしく思えます。もうほんとに知らない、そんな気分になって出ていってやろうかと思ったら、目の前の先生はゆっくり立ち上がって、自分の座っているソファの方に移動して、真横に座りました。本当に真横の、体の一部が触れるような距離のところにいます。触れているところを異様に意識してしまって、緊張して、怖くて、恥ずかしくて、なんだか嬉しいとかと似た気持ちにすらなって、涙が急に止まりました。先生は少しだけ脚を広げて座っています。自分の膝に肘をついて、手を組んで、前傾姿勢でウスルを覗き込んでいます。「君は私に恋してるんですよ。」穏やかで、優しい、ウスルを殺してしまいそうな声色でした。悪いとも良いとも言わず、事実だから自覚させるような言い方でした。違うとか、そんなんじゃないとか、ウスルは言い返さなきゃいけないのですが、すぐ、両肩に先生の手が添えられて、先生の顔が近くなって、何も言えなくなりました。ちがう、そんなずるいような気持ちでお迎えに行こうとしたり、プレゼントをしたんじゃ、決してありません。特別になりたいとか、そういうんじゃ、本当にないのに。自分はそんな期待とかしてなくて、何も望んでなんてなかったのに。今までの優しい顔の先生はもうウスルを助けてはくれませんでした。少し顔を傾けて、意地悪そうに笑っている先生に、追い詰められています。「君には私と一緒に、いけないことができる子になってほしいんです」「君と私は、一番の仲良しになれるから」とても静かな、囁くみたいな声でした。時間が止まったと思うくらいに。言葉の意味を理解する余裕もなく、いつもと違う先生を拒否することもできません。それは期待しているからではありません。何もわからないからです。「目を閉じて」言葉に逆らえなくて、目を閉じるしかなくなって、肩に掛けられた両手が体の後ろ側に滑り込むのを感じて、心臓がばくばくと言うのを聞きました。先生の気配が近付いて、真っ暗な視界の中、心臓の音の中、唇にとても柔らかくて温かくて、人生で一度も触ったことのないような、優しいものが触れました。それはとてもゆっくりウスルの唇を圧迫して、それは、息をしていて、湿っていて、それは先生の唇だとしか思えませんが、それが先生の唇だとだけは思えませんでした。だから、目を開けることもできません。何が起こっているかは、理解すべきじゃなくて、理解してしまえば自分が、今動かないのは、自分がこれを、心のどこかで望んでいて、今、喜んでいるのかもしれないこと、理解してしまいます。体の後ろ側に回り込んだ先生の手が、腰を引き寄せました。息が止まりそうで、わけがわからなくて、幸せな気がして、恐ろしくなって、じぶんがどうなってしまうのか、わかりませんでした。

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そんなことがあった日の夕飯はめずらしく殆どの寮生と、先生も同じような時間帯に食堂にいました。食事中、とある子が、なんかうれしそやね、と先生に話しかけました。すると先生は優しく、素直に嬉しそうに笑って、ウスルくんとやっと仲良くなれたので。といいました。ウスルはそのときも、先生の方を見ることはできませんでした。その日の夜、ウスルは自分の部屋で、椅子に座って、あのキスの後に渡された、お返しのプレゼントを、見つめていました。それはロゴが焼印された木の箱に入っている、高級そうな黒いボールペンでした。ウスルにはとても値打ちのあるものに見えました。けれど、「私とお揃いですね」と、同じものを持ち歩いているのを見せてもらってからもう一度それを見た時に感じた値打ちは、それ以上のものでした。自分には、勿体無いと思って、かたまっていたウスルの頭を撫でて、「君はもっと、いろんなことに期待ができるようになれたら、いいですね。」と先生が言ったのを思い出します。期待ができるようになれたらいい。期待。期待は、していました。自分は怖いくらいに欲深くて、先生に、いろんなことを期待していました。だって、今日あったことの全て、夢のようでしたし、夢じゃなければいいのにって、確かに思っているのです。理解が追いつかないくらいに一気に夢みたいなことが起こりすぎて、全てあまりに欲深い心が見せた、都合のいい夢だったとしか思えませんでした。唇だと思ったあの感触も、もしかしたら自分が都合よく、唇だと思い込んだだけで、唇ではなかったのかもしれません。そうだとしたら、本当に、自分は救いようもないくらいに強欲な上に、いろいろと倒錯した人格の持ち主だと言うことになります。先生に恋して、先生とのキスを夢見て、先生のご厚意を、勘違いして、舞い上がっているということになります。そのボールペンを見れば見るほど、真横に座った先生の、少しだけ触れていたところの感覚とか、撫でてくれた優しい手の感覚とか、キスだと感じたあれとか、腰を引き寄せられたときの胸騒ぎを、思い出します。その時は胸がいっぱいで、言いたいことの一部も、プレゼントのお礼すら言えそうにありませんでした。それでも先生は、全部わかっているよって言うみたいに、何も言えないウスルを、ずっと撫でていてくれました。思い出すと、ボールペンが本当に自分のものか疑わしいような、どうしようもない不安に襲われました。今すぐ、本当に今すぐに先生に会いに行きたくて、先生、先生って呼びたくて、涙が出るくらいに、胸が苦しくなりました。

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唇の感触が夢でないのなら、ウスルの腰を引き寄せるあの手が実在したのなら、もう一度してほしい、本当に先生とキスしたのなら、もう一度同じ事がしたい。いつもそれを考えているのに、それ以来先生は、以前の先生のままです。先生とウスルは、以前の生活をなぞりあっています。呆気ないほどに。「以前の生活」をテーマに、おままごとにでも興じているみたいに。知ったのに、何かが決定的に変わったことを隠して、ウスルは生活し続けました。何も変わらず接する先生に怒りが湧きそうなのですが、混乱が先行して、自我のあり様もわからなくなってしまいました。そうしていたら、あの非現実が本当に非現実だった気がしてきたのでした。非現実が現実である証明が、今やプレゼントされたペンだけです。学校にいても、いつも意識は寮の部屋の引き出しにありました。引き出しの奥にあるはずの、贈り物のペンを触りたくて、確かめたくて、寮にはやる心の所為で最近は自覚出来るほどに貧乏ゆすりが多くなっています。ついに前の席の子にそれを指摘されました。ペンを確かめることが中毒になっているのは、それが観測を怠ると消える気がするからです。けれど持ち歩いて失くしでもしたらと思うと決して持ち出せません。ひとりぼっちでしかペンの存在を観測しないので、自己の妄想でないことを証明しきれません。ひとりで部屋にいる時は、願うようにペンを握りしめます。眠るなら、ペンの箱ごと枕元に置いておきます。ウスルは毎日毎日寮に急いで帰るのですが、以前のように先生にひっつきまわる訳でもありません。かといって先生を避けもしていません。挨拶されれば返しますし、お話されれば返事はします。一定の気まずさと一定の絆を手に入れているはずが、何も変わりません。寮にいると、先生を探してしまいますが、寮でなくても、街でも、時には学校ですら先生を探します。探す、とは少し違うのかもしれません。先生がどこにでもいる気がして、それを期待する勝手な目が、幻影を追ってしまうのです。けれど先生が実際にいると、先生を直接見つめることはできません。視界の端で捉えた先生を、意識の目だけでまじまじと見つめます。先生の上手な笑顔を観察する事、そして上手な笑顔に上書きされた、鋭い目線を掘り起こすことに静かに必死になって、先生をチラチラと見ます。寮生が先生の話をしていれば、それはいやに鮮明に聞こえました。先生の持ち物が置いてあれば、それはいやに存在感を持ってそこにありました。心で先生を呼ぶことに罪悪感を覚えるのに、ひとりでいるときには、口に出してほんの小さな声で、先生、と呼びます。先生への怒りのような何かも付随しました。呼ばないと先生は自分のものでなくなるのです。先生がウスルのものでないことなんてものはウスルが一番よく知っていますが、それでも。先生、と呼ばなければ、その形に口を動かし声を発し彼を想像しなければ、先生と繋がった何か不確かなものは、バラバラに霧散違いないのです。ウスルは願うように信じました。自分には静かにひとりで先生を呼び求める権利があると。ウスルが風呂を、誰もいない時間まで待って最後にいただくようになったのは、先生の着ていたシャツを洗濯物カゴから探し当てる為でした。手に取り、眺めるのです。悪徳であると自覚しながら先生のシャツに手を伸ばし、明日はしないでおかなくてはと思いながら先生のシャツをまじまじと眺めます。これ以上はしてはいけない、と自分を自分の枠にきちんとおさめて、先生のシャツをなるべく元通りに返します。そして、そんな邪気や罪を払うようにシャワーを浴びます。それはとても乱暴で、手短で、男の子らしいシャワーの浴び方になりました。男子として、ウスルは自身の乱暴さには一定の好意と信頼を寄せていました。その男性性にすがっていたと言ってもいいでしょう。反面、自分のふとんを嗅いで安心したり、抱っこして寝ているぬいぐるみが人生に必要不可欠だったりする甘えん坊な側面が、ウスルには常にありました。一度、その甘えん坊な側面を言い訳にして、先生のシャツに顔を埋めて深呼吸してしまった事がありました。学校でちょっとだけ嫌な事があって、学校帰りにもちょっとだけ嫌なことがあって、しかも先生をあまり見られなくて、ついてない日で、弱っていて、弱っているから仕方ないと言い聞かせて、いつもなら手に取り、なるべく短い時間眺めるだけの先生のシャツの、背中のところに顔を寄せました。先生の背中にぎゅっとする想像をしながら、ゆっくり深く、息をしました。シャツの背中は、窓を開けた瞬間に感じる匂いを、少し金属っぽくしたみたいな匂いがしました。先生がこんな匂いだったか思い出したくて、キスされた筈のあの時の記憶と照らし合わせますが、足りません。予定では一度だけのつもりでしたが、勿論やめられなくなりました。結果的にウスルは先生のシャツを毎日嗅ぐようになりました。シミや汚れを探すようにすらなりました。先生の服装を、今日の夜に嗅ぐシャツなのだと思いながら見るようになってしまいました。そうしたら、先生を、先生の知らない側面から支配しているみたいな意地悪な気分がしてきて、自分を惑わせる先生に、小さな仕返しができている心地がしました。小さな罪だとはいえ、不可逆な道だとわかっていたら、ウスルはそれをしなかったのでしょうか?

230207vr