口が勝手に笑んだ。なぜかは説明できない。僕は疲れていた。オルロレンチは僕のそばにしゃがみこみ、いずれ座りこんだ。長い時間をかけて。僕はオルロレンチを見なかった。勇気が出なかった。来た真意を問うた。言葉がかけられた気がした。理解できなかった。そこから少しずつ一緒に過ごした。いずれ彼は、僕は彼の時間を使ってもいいと彼は言った。世界が終わるまで。オルロレンチも僕も、この最後の切れ端から、本当に全てが終わるまでの間に見たことも聞いたこともすべてなかったことみたいに忘れてしまう。持ち越せないのだ。「だから何を言ってもいい。」「それであなたが損なわれたりはしない。」何日か、何も起こさないように生きた。僕はオルロレンチをウスルと呼んだ。オルロレンチがそう言ったから。僕はいくらか演技が上手くなっていた。オルロレンチによく覚えていましたねと言った。オルロレンチの顔を見ることができない。その理由を彼が承知していたから惨めだった。誰もいない世界で生きているのが彼と僕だけであることが僕の主観に何を映しているか僕にもわからない。感情に類する波だけが、種類問わず高じて、胸を詰まらせる。僕は僕の不憫を訴える先が残ればよかったのにという感情を故意に作り出してオルロレンチに吐いた。僕の不憫を訴えるに最も適していない人物が残った。僕は彼にだけは恨みがない。 オルロレンチは僕に大変だったねと言った。どういう意味か考えそうになったがやめた。大変だっただけで十分だ。オルロレンチは恋心に向き合いたかったと言った。僕は耳を疑った。最悪な気分になった 頭が痛くなって眉をひそめた。どうせ夢なのにオルロレンチは僕の忌み嫌う概念で物事を測る。

どうせ夢なら「私も貴方のことが好きだ」みたいな内容で受けとる工夫があってもいいかもしれない。誰も次の世界に持っていけない、夢の中でなら。「どうせ忘れるなら。」が、いかなる行動も後押しした。考えたくなかった。僕が考えるのはあまり褒められたことではない。僕はウスルに好きでしたよと言った。眠たくて仕方ない時に目を閉じることを我慢できないのと似た抗えなさで。会いたかったと言った。友人として以外の意味も含むと付け加えた。話せて嬉しいですと言った。好きにならなければよかったのにと言った。一故意に人を困らせてみたかったのかもしれない。ウスルだからかもしれないしオルロレンチだからかもしれない。



みんなおおかたいなくなって、オルロレンチとレクトはふたりぼっちでした。ブロキマナクは、大勢が歩き回っていた頃のようではありません。静かです。風も音を立てるほどは吹きたちません。音がないだけで、同じ景色の中でもとても遠くまで見渡せる気がしました。誰もふたりに声をかけません。レクトは変わらず、みんなと住んでいた家にいました。レクトはみんなが絶えてしまう前のお仕事を営み続けています。いくらか簡略にはなっていますが、未だに世界の隅から隅までを観測します。オルロレンチも一緒に行きます。共に世界の隅から隅まで観測します。世界にキャストもゲストも溢れていた頃、オルロレンチはひとりぼっちでした。オルロレンチに約束を交わした人がいて、オルロレンチは彼を待っていました。必ず迎えにいきますを信じて。彼は現れず、世界は終わろうとしています。オルロレンチはそれでも待っています。今も。オルロレンチは、レクトを毎日慰めました。レクトの心はシャールと餌木によって深く傷ついていましたから。それだけではありません。オルロレンチにとってレクトは深い意味を持っていました。レクトだってそういう意味では、オルロレンチを慰めていました。何もかもうまくいってはいませんが、最悪ではありません。2人には時間がありませんが、ただ慰めあうだけなら充分すぎるほどの時間がふたりにはありました。 レクトはどこにでもいけるので、オルロレンチを案内して回ることにしました。せっかく作り込まれた素敵な世の中ですから、観光ガイドごっこしないのはもったいないのです。もちろんレクトはごっこのつもりではありません。ガイドよりも丁寧に、オルロレンチが初めて訪れる場所以外にも、一度巡った場所でも何度も巡りました。オルロレンチに丁寧にしたいからだけではありません。レクトが、起こったこと、見たこと、思い出したいことも思い出したくないことも、できれば何度も何度もくまなくなぞって、忘れないようにしたいという意の表れでした。2人には、他人のようでありながら旧友であるような、見えない約束事が取り交わされていました。レクトはウスルが好きでした。したことないことがしたいとも考えていて、役割も緩んでくれていました。オルロレンチはレクトの気持ちに応えてはいませんが、見て見ぬ振りをしてはいません。オルロレンチはウスルであった時の逃げを、償いにきたと言葉にしました。オルロレンチはいざなっているのです。あおっていると言ってもいいかもしれません。それをレクトは嫌いました。


レクトはオルロレンチの承諾を得ずにオルロレンチを犯しましたが、オルロレンチにとってはそれでいいのです。オルロレンチの耳はぴったりと添うレクトの腕に塞がれていました。オルロレンチの鼻には、レクトの鼻が触れそうでした。勝手なレクト、自暴自棄なレクト、全てなかったことになると思い込んでいるレクトの表情は、虚ろだけれど、本物です。夢の中だから、と、心の底から思っているのでしょう。レクトはレクトの夢の中にいる想定でオルロレンチを犯していますが、オルロレンチにとってはそれでいいのです。レクトの右目の穴を縁取るまつげから、汗が垂れそうなのを見つけました。 その汗は、オルロレンチに落ちました。それじゃない汗もいっぱいオルロレンチに落ちました。レクトはゆっくり、大きく、鼻で息をしていました。ずっと、ウスル、ウスルと呼んでいました。いよいよ、目を伏せて、ウスル、好きです、と言いました。苦しいはずなのに、苦しいことに気づいていないみたいでした。オルロレンチはレクトを見上げたまま、正気を保つ努力をしていました。ウスル、と呼んで最後、言葉が途切れて、レクトはうずくまるみたいに頭を下げて、ウスル、僕を見てと言いました。まるで泣き声のようでしたが、低い声でした。オルロレンチは向けられた言葉と感情と、その上に建築されていくであろう、未来の記憶を不意にリンクさせてしまって、引きずりこまれるみたいに甘く痺れてしまって、ゆっくりのけぞりました。ゆっくり、息を吐きましたが、出してはいけない声も出ました。なぜ気付かなかったのでしょうか?似てる、とまでは思えたというのに。当時、レクトとは、充分に深く話す機会があったはずなのに。レクトの自分勝手なゆさぶりを受けながら、体に長く冷静を強いたつけで一度甘くなってしまったお腹の中は、その甘さをびくびくと波及させていきました。レクトはウスル、と呼び続けます。呼ばないでと言いそうになりましたが飲み込みました。レクトの名を呼びそうになりましたが堪えました。レクトじゃない呼び名を呼びそうにすらなりました。それはレクトの名前でもあります。私も貴方が好きだとか、愛おしいだとかは言うべきではありません。あまり不躾に感じ過ぎるべきでもありません。それらはせっかく溢れたレクトの本物の感情を止めてしまいかねない力を持っているのです。何度も繰り返せばいつか、オルロレンチが愛しい人に迎えに来てもらうことができる世界が、訪れるのでしょうか?何度も繰り返せばいつか、レクトが同じ時間を生きたウスルやオルロレンチと添い遂げることができる世界が、訪れるのでしょうか?ぐぢぐぢと奥をこねる動きとウスルを呼ぶ声はずっとずっと終わりません。堪えられない声を無理やり堪えて痙攣を封じ込めて、願いました。レクトが、全部無かったことになる世界なんかじゃなくても、本物の自由が彼にありますように。ウスルだった時にこうして、ウスル、ウスルって呼んで、好きですって言って、僕を見てって言って、犯したのだとしても、行為の是非と友達である事実は変わるはずがないのですから。

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オルロレンチにはすでにレクトとお風呂に入るイメージが備わっていましたので、レクトが勝手に風呂に入ってきても構いませんでした。けれどオルロレンチを犯す前も後も、レクトはオルロレンチに誘われるか許可を得るまでは風呂を共にしようとしませんでした。どんな扱いをしても構わないと言ったら、「そういうのは、もう、いいんです」と言いました。罰が悪そうに。そしてオルロレンチを撫でました。レクトはオルロレンチを尊重していました。レクトは、風呂に一緒に入っていいかを聞きました。化粧を落とす様子を見ていてもいいかを問いました。聞かなくてもいっぱい見てもいいのです。レクトはレクトの夢の中でさえ律儀です。レクトの律儀に、オルロレンチはレクトの未来の律儀の影を見ました。未来の日々を思い出しました。オルロレンチはレクトと長く一緒にいればいるほどレクトの未来に引っ張られそうになります。遠い遠い過去のことのはずなのに。当時は何もかもが上手くいっていませんでした。オルロレンチはこうして2人で過ごすようになって初めて、泣きそうになりました。オルロレンチにも不完全は備わっています。風呂には未来のレクトがたくさん備わっています。オルロレンチは温かなシャワーの刺激が洗い流す、自らの塗肌の暗い色が、排水溝に流れていくのを見ていました。レクトを見れなかったから。気付いていました。最早レクトに、なんの混じりけなく向き合うなんてできっこないことに。レクトが、オルロレンチが自らの体を拭くのを、湯船から見つめるから、レクトが、それを好きだと言ったから、オルロレンチの感覚の全てはレクトをすり抜けました。彼の向こう側を見ました。もはや、彼の未来を抜きに彼に向き合うことができない以上、「目の前のあなたに向き合う」は不可能でした。破綻かもしれません。オルロレンチが黒くなる以前から則ってきた法に従えば、これはスマートな人間関係とは言えません。オルロレンチは目を瞑りました。悔しくて。オルロレンチが白い肌に変わりゆくのを、レクトは綺麗だと言うのを聞きました。綺麗と言い慣れていないようでした。レクトはそのまま頭を抱えました。髪を引っ張っているみたいに見えます。はー、と息をつきました。「恋愛感情さえなければこんな見え方しない。早く好きでなくなりたい。1番の友達なんです。今だけですし、どうでもいいんです。恋愛感情は、作用だから。」今ならわかるのに。あの時、「同じ気持ちはあげられない。けれど受け入れられないわけじゃない。一番大事な友達なのは、ずっと変わらない」そう言えばよかっただけなのに。それがしたくてここにいるはずなのに。もう二度とレクトであるレクトに会うことはできません。もうオルロレンチだからです。


オルロレンチはウスルの家を見にきました。いつか、宿主より長く生きる寄生虫だと形容した荘厳な建物を見上げました。ウスルの痕跡に声をかけたりするつもりはありません。確かめにきたわけでもありません。地下室に来たのです。レクトとしか一緒にいなかった場所は、ウスルの地下室しかありませんでしたから。ウスルの個室の秘密のまじないの中でなら、レクト本人だけを見つめられるはずでした。レクトの所作に、哲学に、面影を見ずに済むはずでした。レクトは、ドアの前で、ドアを見つめて、じっとしたり、ウスルの個室に入ってからも、本棚を見つめて、じっとしたりしました。一冊一冊の題名を目で追っかけているのでしょう。オルロレンチはその横でレクトの目の動きを見ていました。レクトは眉間にしわを寄せて、目を閉じてうつむきました。幸せだと言いました。急に幸せで、胸が痛いと言いました。レクトは度々、こうして時間を贅沢につかって、俯き、言葉を詰まらせます。涙が出ないから。レクトが、オルロレンチ、と言いました。君は勘違いをしているかもしれない、と言いました。 「恋心なんてどうでもいい。友達でいれるなら。恋心には向かい合わないでほしい。あのときだって、ウスルが誰を支えにしていてももちろん構わなかった。大したことではなかった。あの時僕は自分が恋心を向けると人は例外なく生理的な嫌悪感を持つんだと信じていた。先輩と色々あった。それだけです。今もそのしこりは残っている。膿んでいるだけです。ウスルには辛い思いをさせたくない。ウスルだけを特別扱いしている。ウスルにだけは、辛い思いをどうしてもさせたくなかった。オルロレンチは、恋心に向き合いたかったと言いました。ウスルも、オルロレンチも、ずっとそう。優しい。だけど恋心は向き合うべきものではない。恋心になんていかなる義務も伴わない。いかなる権利も。それで何かや誰かが特別になったりしない。生理現象でしょう。そんなことで特別扱いしているんじゃない。君もそれをわかっていた。君は友達です。最も大切な友情を、君と育んだ。」 オルロレンチははじめは、不思議なすれ違いの中で不思議な遊びをするだけで、この世界では満足しようとしていました。けれどそれではもういけません。レクトがオルロレンチをウスルと呼んで、ウスルに向けてオルロレンチをすり抜ければ、オルロレンチは違う名前を呼ぶことになるでしょう。未来へ向けてレクトをすり抜けて。オルロレンチはオルロレンチでいなくてはいけませんし、レクトだってレクトでいなくてはいけません。オルロレンチはレクトより少し背が低いので、近くでおはなしをしようとすると必ず顔を上に傾けなければいけません。ウスルはレクトと同じ高さでものを見ていました。オルロレンチはレクトにお願いをしました。もうふたりきりで、誰もいない退廃の中ですごして長いというのに、はじめてのお願いでした。ウスルと呼ばないでほしいと、レクトに言いました。

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