真の意味で合理的な生き物がこの世にどれだけいるのでしょう

「ラバランなんて、恐ろしくないでしょう。彼、合理的だもの。」
ナリエは怒りをあらわにしてみようとしましたが、やめておくことにしました。悪い気分じゃなかったのです。餌木もわかっています。ナリエがご機嫌斜めじゃないことを。餌木の部屋には寄っただけです。寄れと言われたから。最後だと餌木は知っていたから。さっさとラバランのところに行くつもりでいました。ナリエはこれから始まる最後のラバランとの交渉において、対等に事物を入れ替えっこするような合理的な条件を提案する気はありません。ラバランは、どれ程、ナリエが一万堂で築き上げた、ラバランの意に反する集団を煙たがっていることでしょう。しかし、そんなもの作らせた方が負けなのです。ナリエなら、トップの意に反するたったひとりが出た時点で無力化したことでしょう。即殺すということです。それをしなかったラバランの負けです。ラバランは甘いのです。ラバランの不抜けと非力を、なによりナリエの命が声高に証明している、とナリエは思いました。ラバランがナリエに、最後の交渉の中で何を言おうと、何を以ってどう脅そうと、ナリエはきっとラバランの部屋を出る時、ラバランの築き上げた一万堂という母体をある程度引き千切って持っていくことが出来ているでしょう。長らく、その準備をしていたのですから当たり前の結果です。ナリエはいよいよ、一万堂とおさらばするので、笑いました。餌木はずっと同じように微笑んでいたのでした。世間話として、餌木は、先日ナリエが捨てた青い髪の犬男の話をしました。ナリエにとってはとにかく聞きたくない話だったので、静かに、高価そうな絨毯に煙草を落として、グリグリ踏み付けて消しました。餌木は複雑そうな顔をして、短く謝り、ナリエに背を向け、言葉を詰まらせ、ナリエにラバランの部屋に行くよう促す言葉を発しました。その合間に、ナリエにはナリエの犬だった男の話が聞こえた気がしましたが、聞こえませんでした。一万堂の最上階、ラバランの部屋は、経営者の部屋の割に簡素です。簡素ですが、応接間の役割を果たす為だけに最低限の調度は揃っていました。今のナリエに傘持ちは付いていません。それでも、ナリエは悠々と、堂々としていました。ラバランは無表情でした。ナリエの目には漫然としているようにも見えました。ラバランは目を合わせませんでした。体も顔もナリエの方に向けていませんでした。ラバランの仕事部屋の、唯一の客人なのに。とはいえナリエはラバランの必ず目を合わせて微笑む、癖のようなものが大嫌いだったので、今回の態度は比較的気に入っていました。唇が白くて、乾いていて、隈が酷く、目つきが悪い。疲弊した姿がナリエの気を逆撫でする人物と、健康な姿がそうする人物とがあります。ラバランは後者です。こうして疲弊したラバランなら、傘持ちを付けずに一緒の部屋にいてやっても、構わないのです。ラバランはナリエが座っているより硬い椅子に座っていました。けれどふわふわのソファで足を組むナリエより、高い位置にいました。ラバランは長らく黙っていました。ナリエはラバランの沈黙が好きではありません。沈黙に飽きて、丁度ナリエがおとなしいこどもごっこはやめにしようとしたころ、ラバランは口を開きました。せっかくの機会ですから、しなくてもいい話こそ、しましょうか、そう言って、やっとナリエを見ました。ナリエを睨みました。ナリエは重い靴の足を机の上に振り上げ、大きな音を立てて着地させたと同時にラバランを睨みかえしました。ナリエは口元だけの笑みを作り直しました。ラバランは、人形みたいに固定された眼球でナリエを見つめ、私には、と言いました。そこから少し間をおいて、もう一度私には、と言って、話をはじめました。思い出話でした。ナリエにまつわる、営みにまつわる、裏切りにまつわる。親の思い出話程人生に不必要な物もなかなかありません。ナリエはにっこりして、黙って、話のほとんどを聞き流していました。ラバランはどんな話をしていても、最後にはいつも、ナリエに頭を下げてきましたので、最後である今日も、そうでしょう。ラバランがナリエにどんな申し出をしようとも、それはお願いの範疇を出なかったのです。ラバランは机の上のペンを、定規を、計算機を、書類入れを指先で、落ち着きなく、完璧な平行に並べなおしていきました。いい気味だと思えました。もう一度言いますが、疲弊がナリエの気を逆撫でする人物と、健康がそうする人物とがあります。ラバランは後者です。ナリエは仮にラバランを飼うなら、裸にして、傷つけて、床に転がして、とにかくボロボロに演出しなければいけないことを想定していました。ナリエは犬を飼うことが趣味で、犬の装飾にもこだわりがあるのです。
「私は、ここを経営するにあたって、命令とか、独断とかを滞りなく行うトレーニング、粗暴な振る舞いの訓練を、一通り完了しました。それでも必要十分に満たなかった。だから梶木を置いています。彼は一万堂の独裁の冠です。そしてこのテーマパークの裏切りの象徴です。私が共感とか、同情とかに引き摺り込まれて、組織としての判断を誤らない為に、いるのです。梶木は、君を散々殺したがっていました。急いでいました。一刻も早く、君の首を玄関に飾ると言っていました。私が梶木をわざわざ、毎回、止めて、君を大変贔屓にしていたのは、私にとって、君が、私の欠陥を埋めて、私の……極めて個人的な夢を叶えてくれる、私の一部だったからです。……そうでなくても君はトッププレイヤーでしたから、守り、野放しにする口実はいくらでもありました。優秀なこどもでいてくださって、ありがとうございました。梶木が幾ら君を殺すと言っても、私は何度も何度も梶木を止めた。経営者としては、私は、後悔すべきです。梶木は正しい。制御の利かない備品である時点で経営者は、君を捨てるべきです。」
ナリエにとっては、なるべく君に寄り添いたいと主張しフロアや人員といったリソースをナリエに多く割いたラバランより、お前をとにかく早く殺したいと主張する梶木の方が好ましい人物でした。ですからくたびれて素直に牙をむくラバランの言葉は、ナリエにとっては耳に心地よいといっていいほどでした。早口なのも、抑揚がないのも許して、音楽のようにラバランの言葉を聴きました。最後ですから。ナリエはこの話の最後に、ナリエが動かせる人員全てを一万堂から引き剥がし離脱し脅して頃合いのいい拠点も奪うつもりでいます。しかしラバランの態度が面白かったので、ラバランの話があまりに長かったので、これ以上ここにいては面白くないと気付くタイミングを逃しました。油断もありました。ラバランはいつもナリエに頭を下げました。ラバランがナリエにどんな申し出をしようとも、それはお願いの範疇を出ませんでした。だってナリエはお気に入りのこどもだから。ラバランは表情を変えません。机の上のものを整える手癖を終わらせたまま、指を震わせていました。
「私は個人的な理由の為に君を守って、個人的な理由をかなえる君以外の可能性も失った。私に今あるのはままならない人生へ向けるつまらない思いと、経営者としての非合理性だけです。私は合理的な人物ではありませんでした。今回は私怨を用います。一万堂は私でしたから。ここは私の個人的な営みそのものでしたから。君は私の夢を背負ってもいたから、君の放擲に伴い、いかなる財産を放擲することも厭いません。君は、私の、やっと、生まれた、はじめての裏切り者です。梶木には悪いけれど、待っていました。憎いけれど、憎いから、運命を感じてもいる。憎い子を待っていたんです。君は今こそ、今でこそ、最適な一万堂の備品です。なにいってるかわからないでしょう?私は矛盾した人間なんだ。君を殺す理由も君に殺される理由も極めて個人的に、私の渇望するところです。」
「お仕事としては、君の首が欲しい。ここで死んでください。生き返った君が首を取り返せないよう、厳重に、裏切りの象徴にします。私の思い出になってください。
お仕事ぬきでなら、私は君に殺されたい。君は出来のいい子供です。私が私を保てないくらい、すべてをちぎって出ていくと良い。私を殺した上で。どっちも私の望みです。君は最高の子だった。最もよくできた子供だった。私の一万堂をぶっつぶしてくれるのだから。」
ラバランはよくしゃべりました。そこまで言い終えて、席を立ちました。ナリエに近づきました。座ったままナリエは動きません。ラバランを見もしません。ラバランはいつもナリエの元にひざまずくのに、今はナリエを見降ろしています。
「頼むから、一万堂を燃やしてくれませんか、私の子でしょう、ナリエ。最も良くできた私の子なら、それを証明してみませんか?悪いことは言わないから。」「私に殺されてくれるのでもいい。けれど、君がいなくなっても、どうせまた私は出来の良い子を探すでしょう。一万堂が燃えて、私がいなくなるまで。」