ラバランは秘書と秘書の傘持ちに手配させたとあるまじないで、アルチュールの手を丁重に隠しました。多くの場合手当てと呼ぶ方法を使って。

「欠けたものを補い、再生を祈る処置を、手当てと呼ぶのです」

ラバランは悔やみます。自らの届かなかったせいで。足りていなかったせいで。今、ラバランのかばい守るその内でしか生きられない者、自らの責任のなかの者の傷つくののなんと苦しいこと。手当の間じっとして、きょとんとして、過ぎてしまえばもはや何も気にしてはいない様子のアルチュールを確かめても、ラバランは苦しくてたまりません。傷んだキャスト、飢えたキャスト、初めての肉を食べるのであれば、平均的な肉がいいか?特別な肉がいいか?目の前のか弱いキャストは痛み、なにより飢えて震えている。肉をやらなくては。ラバランは自らをアルチュールに添えたまま、控えていた秘書を呼びつけて耳打ちをしました。秘書は呆れを顔にも仕草にも表し、隠しません。「これ」秘書はアルチュールを指差してそう言います。「ラバラン。貴方がこれにしゃがんだり、尽くしたりする価値が、あることを願います」

  手配を待つ間、アルチュールがラバランに尋ねました。「やっていけそうに見えますか、これは」自らを指差します。秘書の仕草を真似たのです。

「やっていけますとも。覚え方にねじれがない。思いやりがある。あなたのことは、たくさんのキャストが支えてくれるようになります」

「さっきのはだれ」

「私の、傘持ちみたいなキャスト」

「彼には歓迎されていないらしい」

「彼は、誰のことも、歓迎いたしません」

アルチュールは彼の出て行った方を見つめます。

「キャストには、バリエーションがあるのですね。案外、興味深いような気がしてきている。キャストって他にもいるのですか」

ラバランは安心が伝わるように努めて、表情に出します。

「たーくさん、いますとも。きっとこれまでは、オーナーと私しかいないように見えていましたね」

アルチュールは頷きも、否定することもしません。

「さっきのキャストより、あなたは偉いのですか」

「彼と私なら、私が上長」

「あなたより、餌木は偉いの」

「もちろん。オーナーがてっぺんにいらっしゃいます」

アルチュールは諦めたように頷きますが、やっぱり難しい、と言いました。

「僕は変なのか、なにかで、その理から外れているから、……僕にはみんな同じ偉さです。あなたもさっきの傘持ちのようなキャストの彼も、餌木も、それ以外がいるなら、それ以外も」

ラバランはそれを聞いて、何か小さな大事なことに気づき始めました。じわじわとした焦ったい速度で。ラバランにとってラバランは弱いとされているようで、ラバランにとってはこの世には恐ろしい対象ばかりでした。それは工夫をしないと自らを守れないほどで、その工夫として身についたのは自らより高いものか、自らが守るべきものかしかない生き様。このような生き様には恐れが大きな意味を持って、恐れがシステムとしてラバランを支えることになりました。なのに、アルチュールのことは怖くないと気づきました。アルチュールに力がないからではありません。ラバランはそのわけを自らにすら説明できません。ただ、アルチュールのことはラバランの上にも下にもしないでおきたくなりました。アルチュールは変わったキャストです。生まれたエピソードにいきなりオーナーが出てきたりね。アルチュールは異質です。ただ異質だからなんだというのでしょうか。ラバランはラバランに言い聞かせます。異質だから、なに?観察できる事や物にだけ探究心を覚えそうになるのを抑えます。探求したくなるほど異質でも、今弱々しくてもどうでもいい。それ以上のひかりがありそうです。ラバラン自らが誰の上でも下でもない瞬間が、アルチュールにおいてなら、訪れるかもしれないのです。それのどんなに貴重なことか。下にも上にもならないなんて!稀有ななにかを見いだしたらそれを逃さないでいたいと願うのも当然です。へりくだるか支配するかその両方か、それが呼吸なのだというように過ごしてきたのとは違うひとときが生まれるかもしれません。ラバランは秘書の傘持ちからキョウレイキスギが主成分のジュースを受け取って、アルチュールに差し出しました。それは入手が不可能ではない範囲の単純な組成のものの中で、できる限り豪勢なのを、できる限り摂取しやすくしたお料理です。弱々しく受け取った手は、手当をした方の手。そっちでなくてもいいのにね。「歯で噛むよ」「召し上がれ。喉に流すのです。こうして……」それがアルチュールにとって初めての肉でした。

ラバランはアルチュールを支えます。ラバランはアルチュールが新しい仕草に挑戦するにあたり、アルチュールの真横にしゃがんだり、後ろから手を添えたり指で指し示したりして助けました。

「これはこちらの営みを簡単にするもの」

「これはあちらの手間を省くもの」

手だのお声がけだのを拒否するでも依存するでもなく、アルチュールはものを受け入れていきました。彼は幸い真似がとても上手。何かを見て、同格のパーツで同じことをする努力にだけ集中する、うまくいってもうまくいかなくてもそれを繰り返す。見真似に抵抗がなく、失態を諦める無気力さと、受け入れる素直な空白がないとこうはいきません。誰にでもできることではありません。何よりやる気と形容される必死さがありました。アルチュールが、何かを失敗したらしい瞬間に大抵口惜しそうにするのは、彼が他者に自己を同期するキャストだからです。こういうのを天使といいます。小さな小さな一歩をいくつもいくつも飽くなき旅路で積み上げた果てに、アルチュールはもうほとんど何にも困らなくなりました。「衣装というのはいらないです」とはもちろん言いません。お袖の膨らんだ胸の空いたシャツが支給されるので、身につけるようになりました。皆様のご心配には及びませんよ。アルチュールは案外とすぐに新しく愛すべき大抵のことに馴染みました。きっともうすぐキャストとして何か大きなものを任されるのでしょう。随分といろいろが上手くなった頃、アルチュールは蔵書(紋様のはんこをついて長持ちするようにしたメモをセリやキョウレイキスギの肉を紡いだ糸で束ねたもの)に新しいなんでもを求めるようになっていました。読むのが疲れるという欠点を補って余りあるほど、読む度に知らないことが知っていることと繋がるのを面白がっているのです。ある日のアルチュールは落ち着きなくせかせかと、ある絵本を抱えてラバランのいる机へ向かいます。いちいち何かしらにぶつかりそうになりながら。ラバランはいつもの席にかけていて、一万堂を形にする心得のひとつにきりをつけてアルチュールを見上げました。焦った表情を見て、手の内に本のあるのを見定めて、アルチュールの言葉をゆっくり待とうと微笑みなおしました。アルチュールは見せたいのであろうページを探す仕草をやめません。絵本に目を近づけて手を動かしています。丁寧かつ迅速に、あるページのある画を指します。それは「シャールの絵日記」と言われる数冊の内の一冊。海の底の画。海の底のおはなし。海に沈む型番の山の画を指さしました。

「これ、これだよ、この形のがいっぱい、積み上がる程降りてくる時さえあった。迷惑だったのですよ。あなた方の仕業でしたか。様子を知っておいでだったのですか。でなければこんなに上手に写せるはずもない。この中にね、ひとつだけ動いていたのがあった」

アルチュールは確かめるか探すかするように真剣に指差し、指差し、指差します。

「僕は、ここに、ここにいて暮らしていた。知っていたなら言ってくれよ。あなたたちみたいなのを全く見たことがないのではなかった。だからここにきて合点がいった。あなたたちが」ラバランを指す。「きていたのだと。沈んで。ここはあなたたちのふるさとなのだと、あなたたちになったらしいと、すぐわかった。大抵は固まってダメそうなのが沈んでくるが、自由そうに沈んでくるのがひとつ、いたのです。それが僕を珍しそうに眺めて触りやがった」

アルチュールはまくしたて終わると黙ってしまって俯きがちに本を凝視し何も言わなくなりました。アルチュールがそうなった後もラバランは、ぽかんとして、何も返すことができませんでした。唖然とし、ラバラン自身が何を感じているか整理する暇もなくまぜこぜな焦点の合わない、ただし強い意識が頭の中に広がっていくから。アルチュールは本を抱っこしてずっとそのページを見つめたまま集中しています。アルチュールが観光地に来る前の話をしているらしいというのがわかりかけて、それでも理解はラバランの頭の上をすり抜けました。ありえないのだもの。何もかもを訊ねたい衝動に駆られては、言葉を注意深く選ぶ普段のくせに飲み込まれて、一瞬一瞬で多くの機を逃し、結局言葉に詰まります。冗談にも聞こえますが、冗談をつむぐ素質も材料も理由もアルチュールにはない。ラバランは結局、願うみたいに右手に左手を添えました。ラバランにとってラバランは弱いから、ラバランを守るにあたってそのくらいしかできないのです。餌木がアルチュールを、ラバランに見せた、あの時に得た感情ですらない情動にわけがつきそうになっていました。高揚なのか不安なのかをなだめようと黙ったまま、震える唇でもせめて何か問おうという努力の最中にアルチュールが軽快に言います。

「ここに連れていってください。あなた方はあの場所のことを海というのでしょう。どこです、ここに行きたい。ここにいたのです。どうして僕はここに表現されていないのだろう」

20250102