自らが知りたいことを知りたがるのは後回しで十分、ということに、ラバランはしました。だって何もかもがすぐにつまびらかになってしまうなんてつまらないではないですか。それにそれを得たところで理解が追いつかないに決まっているもの。ただ、徐々に現れた未開のなにかを端から少しずつ手繰り寄せたいと望むことくらいは許されましょう。海というものははずれにあるようで案外と観光地の中にまで入り組んでいるものです。ラバランはできるだけ誰の口からも話題にもならないスポットを選んでアルチュールを迅速に、個人的に、連れて行くことにしました。アルチュールは何も知らないで生まれ落ちた、ゲストみたいなキャスト。アルチュールは海の画を指して焦っていた。嬉しそうではなかった、悲しそうでもなかった、ただ必死であったのです。結果的に今、海につながる浸ったレンガの階段に、2人のプリンシパルが無防備に立っています。建物と建物の間から海が拡がっているらしいのを覗くことができます。臨むには狭すぎるようです。だれかかなにかに見つかってがやがやとする前には切り上げるべきだ。そうなることを願ってそわそわと2人を見つめるのはアルチュールの傘持ちの数々です。ゲストが海は風が強いのだと決め願うものだからこの海もやはり、と言ったところ。建物と建物の作る視界の額縁の中に、開けた海の真っ平な青色が見える。開けていて何もない。ミニマルな構図です。ずっと見ていると受容器官がおかしくなりそうです。

「この、この部分が、海に続いていると?」

アルチュールは震えていて、足元の少し先にある、水面と呼ばれる境界を凝視しています。境界を境界だと認識していないのです。

「あまり近付いてはだめ」

アルチュールは段々海の色になっていく階段が、深い深い先のある段から均一な色になるのを見ていましたが、それをやめて、ラバランを見ます。ラバランにはそれが説明を求めているように見えます。ラバランは自身の髪を手の内にまとめるようにしながら丁寧な動作でかがんで、足元のシュガーをひとつ拾って、海にそっと落としました。シュガーは溶けながらしばらくは形を保って漂ったり、階段に引っかかったりしていずれ見えなくなりました。アルチュールはそれを目を見開いて、じっと見つめます。このお出かけで何も得られなくたっていいと、ラバランは自らに言い聞かせます。これは欺瞞ですが、お行儀の問題なのです。ここでアルチュールが、形容の不可能な何かを、ブロキマナクの埒外の何か、何かですらない何かを行動で示し、それを観察できるかもしれない、なんて下品な期待が湧き上がる。何かってものが何なのかもわからないくせに。ラバランは己の心の落ち着きがないことに恥を覚えます。心が躍りそうな理由なんて、彼は自らより自由だから、でいいのに。ラバランはしがらみもことわりもないところで自由にしている者の行く末を見守ることが好きでした(だからこどもが好きなのです)。ラバランはアルチュールの、ブロキマナクのことわりからもしがらみからも解き放たれているらしいところがすきでした。ただ、しがらみがないからとこどもを想起し、アルチュールをこどもみたいだとと認識してしまうことを注意深く避けました。アルチュールの上にも下にもならないようにしたいなんて欲張ってもいますからね(ラバランにとってこども程、上でも下でもあるものもないのです)。アルチュールが随分と海に近づくものだから、ラバランはアルチュールを物理的に引き止める心構えをします。

「この中にね……」

「中って何」

「この揺れる、色の違う先に、侵入するように進むと、海でできた空間に繋がっている。そこに我々が放逐した石膏が落ちていく。肉にもしない、終末の型番を落として始末とする。君はそれを見たのでしょう」

「どうすればいいの」

海を凝視します。

「どうすればいい」

アルチュールの息は浅く、アルチュールは海を見て、見て、見て色の濃くて何もない海に切なそうに靴を滑り込ませ、前のめってその運動はアルチュールを海に誘い込みました。海がアルチュールの足を取ります。プリンシパルが消える。ラバランはそれを追いかけます。飛沫があがるとほとんど同時に、プリンシパルがふたつ消えそうな瞬間、傘持ちたちで一等勘のいいのが既に声を上げて動いています。飛沫に驚いて身を退くのもいます。ラバランは濡れた恐怖で止まりかけた運動を意思で継続させアルチュールを海でない方に引きます。型番をかえりみず。アルチュールは動けません。だって足がさっきより動かないのです。致命的に重くなり型番の大部分が自由でないと悟る頃、

「ううう ううう うう」

アルチュールは自身が苦しいのとラバランが苦しそうなので後にも先にもない程にとてもとても、割れたみたいに悲しくなりました。悲しさにハッとしました。ふるさとに向かって切ない瞬きだけをそなえて、海への運動を反転します。まだかろうじて動く足で一歩 一歩 一歩 と乾いた場所に戻ろうとします。気力で以て。動けなくなっていく。手を使えばいい。手は動く、傘持ちの内一等早く動いた幾つかが命を賭けて2人を引いて、続いた幾つもが協力しては濡れながら、2人を乾いたところへ引くのでした。2人は倒れたまま、運ばれて整頓されて、どうにか階段の踊り場で、横たわるしかなりません。ラバランは口が動かせます。動かせない部位も沢山あるけれど、首も顔も片手も、まだ平気。

「海に触れては、だめなの、大抵のものは、もろくなって……だめになる」

ラバランはほとんど動きません、アルチュールは変な震え方をします。

「乾かす時は涼しい場所で。気が遠くなるほどの手間をかけて。熱くしたり、急いで、乾かすなんてしてはだめ……ぼろぼろに崩れてしまうから」

「ぼくはいったい何になってしまった?」

君はズーシーだったのだろう。そうは言わないでラバランは、はるか向こうにお空の巨人が、建物に囲まれた狭いお空にあるのを、見つめました。巨人の目を見てなんだか窮屈になりました。やはり伝えることにしました。

「君はズーシー、だったのでしょう」

海の底に沈んでも、まぜこぜの駄目にならないものを、ズーシーと言うのだとラバランは答えました。アルチュールがどんな顔をしているかくらいは、確かめられます。

「シャールというのも?」

「いいえ。海の底でも保たれるもので、シャールさんでないものをズーシーと言うのです」

灰色に水色と黄色の光の切れ込んだ空の隙間に、白くて遠いおさかなさんの群れの飛ぶのが見えます。

「行けないんだ……」

ラバランはできるだけ、まごころをこめた眼差しを向けます。かろうじて動く範囲で、手を差し伸べるようと努力します。

「行けない。僕は戻れないし、僕が、海に戻ると、あなたも来る、僕を止める」

ラバランは微かに、哀れに、頷きます。

「だったら僕はどうやって、先に進めばいいですか、ちがう、いいんだ、よくない、けれど」

アルチュールはそういって動こうとするのを傘持ちに止められます。

「型番を……ごめんなさい」

アルチュールは動こうとして傘持ちにどうしても止められます。

「あなたの……あなたはそれ、随分と大事にしていたでしょう。ごめんなさい。ラバラン、僕、知らなかった」

ラバランはほとんど動きませんが、優しい表情をしていて嬉しそうです。この場にいる誰から見ても気味の悪いほど。アルチュールの傘持ちが何かを参照しながら、もどかしいほど丁寧な動作で2人のプリンシパルから少しずつ水を抜いていきます。2人は動けません。慣れない海を引っ被って動けない傘持ちもいます。じっと横たわって、プリンシパルが汚れて、無防備で、湿って、誰もが焦っている渦中でアルチュールもアルチュールの理由で焦っている。そんな中、ラバランはひとりだけ個人的な探し物に成功したことを心から喜んで安心していました。ラバランは生きない気なんてなかったというのにわざわざ生きよう、なんて感じて、空の金色のところを見て、音もなく笑います。ラバランは真横のアルチュールをできる限り認識します。きっとアルチュールは頭を抱えて嘆きたいはずです。アルチュール。くやしいし、切ないし、聞きたいことがたくさんあるだろうに、心から、“あなたの大事なものについてごめんなさい”と言った。そんなこと、いいのに。ラバランも、アルチュールに心からごめんなさいと言いました。ブロキマナクのものではないかもしれない友人に対して、ブロキマナクなる観光地を構成する一粒として。

「型番が……いえザグリーなのか……ひいては観光地のあり方が……こうして、あなたのお戻りを……拒む。私のことも、にくいでしょう。この石膏の型番を使う全てが、にくいでしょう。ごめんなさい」

アルチュールは空でも海でもなく、ラバランを見ています。

「それでもここに、生きてはくれませんか、あなたには宝物が詰まってる。それがなにか、わからないけれど、まちがいなく、見つけたのです……私の都合、ばかりですね。あなたが、ブロキマナクを許してくださるといいのになんて……願っている。私はひどい。ごめんなさい。あなたには、私欲を押し付ける、醜い、ものばかりが見えていますよね」

「なにが、どうした」

アルチュールは驚いた、弱いものをいたわる時によさそうな顔になります。

「謝ることはない。何を言っているかは、あまりわからないけれど、僕はどこにもいかないだろう。まさか、泣くの?変な顔」

「海の中のことをご存知なのですね」

「この中があの画のようなんて信じられない。ただそれが本当なら、よく知っています。案内してあげようか」

「エスコートしてくださるの」

「恐らくそれだろう。してみます。それがいいことなのならそんな顔をしないでください。僕にたからがあるらしいのだった?それは得難いのかな、別に、あなたにあげてもいいものかも知れないじゃないですか。どこにも行かないし、さっきのは、わからなかったんだよ。わからなかっただけ。怒りではなくて……怒って帰ろうとしたわけでは、とても信じられないかもしれないが、そうではなくて……」

 ラバランは可憐の範囲で最も朗らかな声を出して笑いました。そんな風に可笑しいのと同じくらい、辛くもありました。アルチュールはこんなにくるしくて切ない時分でもこんななのです。餌木のマスクがこんな優しい表情ができたなんて。アルチュールの型番に何か意味があることくらいは察しがつきました。型番がアルチュールに適切ではないことにも充分気が付いていました。アルチュールはラバランにわからない形でブロキマナクの望みや都合を背負っている。なのにアルチュールは優しいまま。ブロキマナクのしたらしい、なにもかもについて、ラバランはまたごめんなさいと言いかけました。紡ぎ出す全てが狡猾さに汚れていると感じて、何も表明できなくなったので黙るしかなくなりました。アルチュールは海の中を案内してもいいと、友情で以て口にした。海の中なんてきっともう叶わないとは、きっとわかってきている、受け入れるのに余程の苦労が必要にちがいないのに。

「こころはここになくてもいい……演技をしましょう。私のこころはブロキマナクにあるけれど……それでも、演技をして、過ごしている。あなたは、自らが不明でも……他者をかすがいにして、演技ができます。またとないほど、紳士的だもの。私の一万堂で、生きてみて。一万堂は私、そのもの。一万堂の一部をお任せすることになったら……さすればあなたが誰かは……一万堂が定義する。一万堂のアルチュールと、誰もが……言ってくださる……。私は、みなさまの、おかえりになる場所として、一万堂を仕掛けました。帰る場所がないなんて、かなしいもの。なのに、あなたには本当の、帰る場所があるのに……帰れなくて……私は一万堂のラバランだから、……君も、一万堂のアルチュールに、なったら、と……けれど、君は、海のアルチュールだから……」

水抜きの仕草の聞き慣れない音と傘持ちの怒号が聞こえています。口が動いているかも定かでない声が意識に消えて、視界に滲んでいくアルチュールをできる限り意識に保つようにします。アルチュールにとってもそうでした。視界に滲んでいくラバランを保つ。ふたりはきっとほとんど同じころに、意識を感覚器官の働きのひとつもないところに預けることとなりました。

20260826