アルチュールはいつのまにか、あったかくて、乾いていて、柔らかくて、暗いところにいました。ベッドで横たわっているのだろうと予測はつく中で、まだ正しくは動かない型番の、数少ない動く関節のところをできる範囲でひねったりします。やめておいた方がいいのか?海で、ラバランも傷んだ。あとなんだかひっぱく、していたし。近くにいないか、いるかもわからない。部屋そのものとか、場所が暗い所為で目が見えないのだろうとあたりをつけて、アルチュールはベッドから起きようとしましたが、叶わないまま。まだ意識があるとはいえないのかもしれません。所謂、夢の範囲の中で今度は型番が問題なく動く心地も体験しました。繰り返し意識を失っては、淡く浮上し、海を飛ぶ心地もして、また意識を失い、浮上し、いつのまにか光があって、ラバランに違いない気配が光を遮って近くの何かに腰掛けたのを感じます。
)あなた、もう、動けるのか(
私はきたなくて、
アルチュールはきれい
私はあなたみたいになれるかな
なにもわからなくなれば
きれいになれる算段だった
あなたはなにもわからないわけではない
のに、きれい
だったら
私、無知になってもきれいになれない
だから、あなたを知りたいのです
「何もない……」
)ただ眺めて
ただ浮かんで
いた もの
ラバランにわかるように いうなら ですが(
「なにもない」
だったら私……
いつか、なんにもなく、なりたいな
–
今では、一万堂のアルチュールと呼ばれます。濡れた型番もとっくに乾いて、濡れるくらいであれば、処置さえきちんとすれば、プリンシパルならなんともないということも知り、驚いたりもしました。石膏の型番に収まって役目に従事し、もう、古い型番を換えたことだってある。とにかく、長くがすぎました。アルチュールにとって石膏でできた型番はしかばねになって沈んでくるものでした。アルチュールは沈む石膏を何と形容するかなど知らなかったから、言葉でない信号で、枝の多いものと呼んで眺めていました。かつてのひとりぼっちの黄緑色の見た目をした長いまつ毛の鮫さんは、この枝の多いものになってしまいました。これがどんなに悲しいか正確にお伝えするのは難しいですが、もう戻らないのに胸が苦しくなるほどに愛しいままのものを想像していただけるとそれが近いはずです。どう表現すればいいかわからない胸のつっかえに、ラバランが「それはきっと、悲しいというのです」「それをきっと、懐かしいというのです」と名前をつけていったから、アルチュールの感覚は名前より外にははみ出さなくなって、はみ出していた分のことはもう思い出さなくなってしまいました。名のある悲しみのなかに長く滞留していたら、名のある悲しみにも馴染んでしまった。もはやラバランと並んで働ける程に何もかもを習得しました。ここまで来ることになったのは、悲しいか懐かしいかとかいう、その根本的なものを、後回しにするとアルチュールが決めたから。海へのお出かけの日は儀式となってアルチュールをブロキマナクへと、正確にはアルチュールを求めたラバランという友達へと縁付けてしまいました。さざなみの水音がしていた、濡れて気怠い、消えることができそうなほど心地よくもあった、苦しいひととき。アルチュールを海と反対方向に引いた、海で傷んだラバランは、濡れた結果、苦しそうにしたり、必死そうにしたりして、何か理解し難いことを言っていました。ことばは覚えていられなくても、ラバランは静かで、呆然としても見えて、それになんだが、この上なく必死でもあった。夢も見た。「なんにもなくなりたい」。いつのことかも曖昧になった、夢か何かで聞いた、可哀想なことばも覚えています。何を言っていたのか、改めてラバランに問うこともあります。
「あなたは優しいね」
ラバランはそういうだけ。
なんにもなくなりたいな。
「そんなこと、申しました?」
「わずらわしいのですか、一万堂が」
「まさか、いいえ、あり得ません。私は一万堂を心から愛しております。万物に、ここに帰ってきてほしい」
ラバランは机の上の整頓された道具のひとつひとつを意味もなく並べ直しています。変わらず机のところにいつもいて、しつこい質問に対してこれもまたしつこく、答えないまま。もっとしつこくしてみることにすると、今回のラバランはやっとついに「しまったなぁ」と呟きました。
「ラバランさん、僕に一万堂にいてと言ったでしょう。僕はいますけれど、なんというか、きちんと満足なんですか?」
それだけは確認しようとしたら、ラバランはそう、そう……と言って顔を逸らします。ラバランはものを並べ直す動作をしたまま、満ち足りたように笑顔でいます。ラバランの感情表現というのはちょっぴりおかしなところがありますが、アルチュールはラバラン以外を学ぶのが遅れた為、ラバランが普通なのだとまだ思い込んでいます。
「アルチュールがこれからも、一万堂にいてくださいますように」
ラバランが言葉で幸せを表現している時分よりも、このラバランは幸せそうに見えましたが、同時に異様に無垢な、不全な、なにかみたいにも見えました。アルチュールはラバランの秘書に呼ばれたので、それ以上ラバランを見ていることはしませんでしたが、ラバランはその表現をしばらくやめませんでした。
20260826
