ナリエがまた姿見をじっと見ています。シャールは不安になりました。シャールはナリエが帰ってくるまで、帰ってきても、ずっと裸で横たわっていたので、冷えた腹部が元々痛んだものですが、もっともっと胃が痛くなりました。震えました。シャールはナリエに鏡を見てほしくありません。鏡はいつもナリエの機嫌を損ねるからです。 シャールみたいに。シャールは眼前の、別に何もない床を見続けながら、その視界がギリギリ捉える、鏡の中にいるナリエへの注意を怠りませんでした。ナリエのやつれた(古びたと言ってもいいでしょう。)、形状だけは幼い顔面が見えます。シャールは声も音も出さずに泣きました。以前、鏡の破片の上で乱暴されたことを思い出しているのです。 鏡とナリエはとにかく最悪の取り合わせです。新鮮なトラウマです。幸い、泣いても、鏡を見ているナリエには気付かれやしません。ナリエはそのくらい集中して、鏡を見ます。顔を見ているのです。顔の何を見ているのかは、シャールにはわかりません。シャールの涙の柔らかいレンズの視界の中で、柔らかくない鏡のガラスの向こうで、ナリエは次第に眉間のシワを深くします。鏡越しに見えるナリエの表情の一部をチラチラと伺いますが、鏡越しにでも目線が合えば、暴力はまぬかれないでしょう。ナリエが足を、短く息を吸うかのように引いたと思ったら、次の瞬間固い靴の先で鏡を蹴り、大きな音と共に姿見の中のナリエにひびが入りました。シャールがびっくりして、引きつった声を出してしまったと同時に、シャールは割れた鏡の中の痩せた裸の自分がとことん情けない顔でおびえるのを見ました。ゆっくりと振り向いたナリエは、無表情でシャールを見ました。シャールは逃げたりうずくまったりできません。
シャールはいつも、獲物を捕らえたナリエの目線が恐くて硬直している自覚があるので、その瞬間も、恐ろしいから逃げられなかったのだと錯覚しましたが、すぐに、そうではないとわかりました。ナリエがはじめて、ほんの子供に見えてほおっておけなかったのです。不気味な感覚でした。正確に言えば、子供の死体が倒れる直前に見えました。もちろんナリエは倒れやしませんでしたが、シャールはナリエへ駆け寄ろうとしました。立ち上がることはおろか、少しだけ起き上がる程度のことしかできませんでしたが、確かにナリエを抱き締めるつもりで動きました。すぐに、その気持ちもそのアクションも引っ込んで、中途半端な姿勢のまま、ばつが悪そうに、床を見ました。
ナリエを抱えるつもりだったとして、抱えてどうするつもりだったのでしょう。ナリエはそんなシャールを、興味も関心もなさそうに、死人みたいな目のまま見つめました。溜息すら吐きません。シャールへの暴力がそのまま、いつまでも始まらなかったので、シャールは気味が悪くて、不安でゆるんでゆがんだ眉やまをもっともっとゆがませてナリエを見ました。何にも興味のなさそうなナリエというのは、今にもナリエ自身の頭を打ち抜きそうな趣です。拳銃さえあれば。間違ってはいません。ナリエはナリエへの暴力を、前触れもきっかけもなく始めました。ナリエの手に握られているものがシャールにはわかりませんでしたが、それが銀色に光ったは見えました。ナリエは銀色の何かを眼帯の隙間から指し入れました。ひびた鏡も見ずに、シャールも見ずに、指し入れて、小さく「うっ」と言って、重いマントがふわっと空気を抱いたのが見えたくらい、素早くうずくまりました。うずくまった拍子にナリエの手の中の銀色が、ナリエの顔面に深く突き刺さったようでした。陰った顔面の容積と、手の中、銀色の何かの光った長さを考えれば、えぐり口は見えずとも、銀色の何かはナリエの眼帯の下を深く穿っているとわかりました。ナリエはもじもじ動きました。ぐりぐりえぐっているからです。痛そうな声を上げました。ナリエから流れる体液が何色か、見えません。そんなはずはないのに。
シャールはただ呆然と見つめました。シャールも「うっ」と言いそうになります。ナリエがうなる声を邪魔しないように、シャール自身の不安と想像上の痛みからくる荒い鼻息の音が、シャールの勝手な最大限の努力により控えられていました。シャールは目をうるうるさせました。ナリエをどうにか助けたいと思いました。錯覚上の倒れる子の死体を抱きしめようとした時と同じように。シャールはあまり何も考えず、あなたの力になりたい、という内容の、もっと散らかったものを口走りました。口走ってから、恐ろしくなりましたが、口走ってしまいましたし、自分から立ち上がって、ナリエに恐る恐る、近づきました。ナリエがとても小さく見えたので、シャールにはその時、ナリエが自分にも助けられる存在であると信じ込むことができました。シャールはナリエの名前を呼びました。今日のシャールは口数が減らないのですが、今日のナリエはまだ殴りません。 ナリエはうずくまりながらもぞもぞすることを急にやめて、手に持っているものを、近づいてきたシャールの右手に無理矢理掴ませました。それは小さなフォークでした。それを握り込んでこぶしになったシャールの右手を、ナリエの小さな両手が即座に捕まえてぎゅっと掴みました。怨霊みたいなとても強い力で。シャールは、小さな小さなの手の、食い込むほどの力が、右手を捕らえて放してくれないことが怖くて、歯を食いしばりました。目をそらしても、ナリエの肉の小さな破片の付着した感触がぴとぴとと鮮明で、後悔しました。「目を見ろ」ナリエが言いました。見れるかと問われているようにも聞こえました。眼帯は外れていました。けれどぐちゃぐちゃであろう傷口がモザイク処理されて見えているので中身の確認はできません。そこに何があるのかシャールにはわかりません。フォークを掴んだシャールの手を掴んだナリエの手は、ナリエの顔面に、モザイクの中に、フォークを誘導し、突き刺しました。シャールは感触を遮断しようと、もっと歯を食いしばります。しばらくはシャールの手とフォークを用いてナリエの力がナリエの右目の中身を掻き出しました。シャールはナリエの右目をぐちゃぐちゃすることを、これからはお前が担当していけと言われているのだと分かっていました。”これが僕を助けるということだ”と。 いつの間にかシャールが姿見を見ているのがわかったので、ナリエも、姿見を見ました。割れた姿見にはちょうど二人が映っていました。シャールの手を掴んで懐に引き込もうとするどろどろのナリエと、ナリエからなるべく身を引こうとするシャールが、姿見にはいました。
ナリエはすると、ふと動きを止めました。シャールを突き飛ばしました。そして立ち上がりました。驚いて?おびえて、ゆるんだシャールのこぶしから、とても優しく、なめらかにフォークを取り上げました。「お前が僕の力に?」ナリエが言いました。逃げようとしたくせに、もう一度ナリエに縋り付こうと動いた白い裸のシャールの動きが姿見に映りました。「おまえ、もう外にでてもいいよ」と言って、ナリエが部屋を出ました。シャールはナリエの名前を呼びました。シャールは一人になりました。シャールは先程の、シャールの手を掴んで懐に引き込もうとしたどろどろのナリエと、ナリエからなるべく身を引こうとするシャールの姿を思い出しました。深呼吸をしました。
そう時間の経たないうちに、ナリエの傘持ちが二体お部屋に来て、一人は割れた姿見を、一人はシャールを回収しました。シャールはナリエの部屋から追い出されました。永久に。
シャールにとって、久々の外でした。シャールにはこれが外だとわかりませんでした。真っ白なのに暗い、雨の降りそうな空でした。ナリエの部屋は一万堂にあるので、こんな時間に外に出ても、ひとりぼっちです。一万堂の豪華な調度の鮮やかな色合いが、罪人の釈放をお祝いしているみたいでした。バカにしているみたいでもありました。今更外に出されても、何をすればいいかわかりません。シャールの手はナリエの乾いた体液にまみれていたのですが、泥遊びしたみたいにしか見えません。帰れば職場も家も友人もそのままありましたが、そのままでないものもありました。そのままでないものの筆頭は餌木でした。シャールはそれから、ウスルに治療されて、何人もお見舞いに来て、シャールは、ずっと、誰にも何も言いませんでした。何もしません。できません。いつもシャールには。横になり一息つくと、一人になると、景色を見ると、ナリエを思い出しました。あなたの力になりたい、のようなことを口走った時は確か、シャールはナリエの力になれる気がしました。ナリエを幸せにできる特別なパワーがこの手に宿っていると勘違いできていました。シャールは、あなたの力になりたいのようなことを口走ったあの時、ナリエがどんな人物なのかを忘れていたことを反省しました。しかしすぐにその思考のおかしな点に気付きました。シャールはナリエがどんな人物なのか、かけらすら知りません。ナリエを思い出していましたが、何も知らないので何も思い出せないのと同じでした。右目の奥に何があったのか知りたかったし、今も知りたい。一万堂に赴いて、ナリエに会おうとして、知りましたが、ナリエは一万堂を去っていました。一万堂を取り囲んでいた児童公園は廃墟になって、一万堂の明かりの大半が失せていました。シャールはそれにまつわる事件についても少し聞きました。だからなんなのでしょう。シャールは、責任をとってみたい気がしました。一度くらい。レクトは誘拐犯に思いを寄せる被害者の病態を描いたお伽話をシャールにしました。その時シャールは、ナリエがシャールの手からフォークを取り上げた手付きが餌木に似ていたのを思い出していました。シャールはレクトに右目を見せてほしいとせがみました。レクトの右目はやはりモザイクで覆われていて確認できませんでした。同じです。シャールにナリエの顔は見えないのです。生理的嫌悪感を、忌むべき生々しいシーンを、吐き気を、見るべきでないもの全てを、この目は覆ってしまいます。その奥に本質が眠っていても。見るべきでないものとは、いったいなんだと言うのでしょう。