1
「シャール君は」
はい
「君はいつからそんなに強く?なったのですか?まるで怖いものがないみたい。いつかのきみとは別人みたいだ。」
あなたが砕けてねていた間に、僕は色んなものを捨てたのです。
「僕は長く眠っていましたか?」
いいえ。少しだけだった。レンチがあなたを待っていました。
「僕はまだ、ここがどこだかわからない。レンチは誰のものですか?」
まるでレンチがグレブさんのひとじゃない世界があるみたいな言い方ですね
「変な気がする」
何がでしょう
「なにがだと思う?」
わからないですよ 僕には
「シャール君は、そんなに態とらしく笑っただろうか?元々ですか?もしかしたら僕が死ぬ前いた世界とは少しだけ 君の意識がずれていて、もしくは進んでいて、君は少しだけなにかのままに行動できるようになっているのかもしれない ぼくは きみのこと、とても大事におもいます。ああ、僕、みんなにもあわなければいけない、今すぐみんなにあわなきゃ レンチは ひじりは?れっくんは?」
寝ています。夜中ですから。レクト君も。
「そうなのですか、ぼく お寝坊なのか 早起きなのかわからないな。れっくんの寝ている期間に目覚めるなんて 僕は運が悪い みんな、僕が起きたのに寝てるなんて」
朝になればみんなに会えますよ
「君はどうしておきてるの?」
眠れないのです いつの間にか 目が冴えて 横になっていても仕方ないから
「僕にあいにきてくれたのですか?」
ねえ グレブさん
「なあに?」
朝になればみんなに会えますから
「うん」
僕はいますから
「うん」
もう少し眠りましょう 変な時間に起きていると明日眠れなくなってしまいます レクト君が起きてれば、はやく寝てくださいって言うと思いますよ
「うん」
ね だからおやすみしてください
あなたにここがどこであるかなど、言うつもりはないのです。
右腕と右脚のないグレブさんの夢を見た。欠損だらけだったものだから、それにそれを自覚しているわけでもなさそうだったものだから、僕がすべきことはなかったと思う。そのまま彼がおやすみになればそれが最後だろうと簡単に予想がついた。彼に言いたかった事を思い出しながら飲み込み、なんともない頃触れもできなかった彼の御髪を優しく優しく撫ぜるような、そういう夢を見たのです。
2
眼窩を中心にしてひび割れた彼のお顔が水面に浮かんでいる。お顔以外が沈んでいる。僕はこれに似た光景を知っている。眼窩は深いわけでも暗すぎるわけでもないただの穴で、放射状の亀裂の中心にある。亀裂は顎まで伸び、耳まで伸び、額まで伸び、彼の顔面を分断している。話しかけるが答えはない。眼窩から顎にかけての亀裂をなぞる。過去肌だったものがそのまま安物の像になったかのような手触り。精密だが、あっけないほど簡素で、乾いていて、硬い。僕の湖の水位は変わらない。珍しく雨が止んでいた。顔面だけが乾いている。「どうして僕の世界にいるのですか。」どうして僕の世界でこうなったのですか。夢を書き留めたその朝に見つけた。僕の世界に初めて上がった僕以外の死体だと言える。彼がここで亡くなったか、何処かでなくなってからこちらに浮かんだかはわからない。
ここで彼が蘇るとしたら?追いかけっこだ。ひとマスずつ追いかけてくる、ひとマスずつ引き放す。距離は縮まらないが引き放せもしない。糸を弾いたような低い耳鳴りがする。
「知りません。分かりません。」
3
白いカーテン越しに灰色の山と白い空が見える。空が白過ぎて見えはしないがしとしと雨が降っている。ベッドで横たわり窓の外を見つめている。病人のようだ。脳みそのしわが一つ減ったような気がする。僕の世界に彼が現れた理由はわからない。流れ着いたかのように水辺に横たわり、ひび割れていた。僕が責任を感じるべきかそれは適切ではないのかも判断できない。僕は僕の世界に暫く引きこもっている。その少し前、あの世界からレンチはいなくなった。今ではグレブさんもいないということになるのか。僕は漂流を傍観している。漂うものを追うなんて。また、無理に因果を追うなんて。僕が彼を引きずり込んだのではないだろうか。引きずり込む理由なら、少し僕が僕に寄り添えば生まれるものだから。後ろめたいことなんてひとつもないのに後ろめたい後ろめたい人生だった。でも今は?逆ではないですか?僕は今、後ろめたいことを明確に言葉にできる。なのに何の後ろめたさもない。
4
今日も彼は同じ場所にいた。朽ちたまま朽ちない残骸。進まない。しゃがみこんでビニール傘を傾ける。彼はどこかで死んだ。そしてここに現れた。流れ着いたのではない、おそらく。彼の形をこれ以上崩すことだけはしたくないから無闇に動かさない。彼を見つけた日だけ雨が止んでいた気がする。僕はあの時傘を持っていなかった。しかし記憶違いかもしれない。僕は雨が降ろうと傘を持たない事がある。記憶違いかもしれない。乾いた顔面の方が記憶違いなのかもしれない。連日の雨にうたれさらしになっているのにずっと変わらないままのこの彼は、月日を重ねてももう朽ちたまま戻りもこれ以上朽ちもしない気がするし、可哀想で。可哀想で?僕の責任な気がして?申し訳なくて?いいえ、僕は、どんな感情にもなっていないか、全く別の事を心にぶら下げているか、全く別の事に心をぶら下げているかです。僕が彼に何を思うかではなくどういう心理を強制されるか?わからない振りをしている。僕が、彼がこんなになってしまって喜ぶと思いますか?それとも一言で表せない複雑な心境、という奴だとでも?僕は彼が好きでした。信用に値した。敬意を示していた。愛嬌のある人だった。彼は今だけは存在しない。眠っているこのひと時だけ。しかし彼が朽ちなければ、彼がこのままなら、彼は誕生できないのでは?存在しないままなのでは。目が無い彼なんて彼じゃない。彼は何処ですか。今だってぷるんと抜け出したあの目が、僕を見つめている。<それ>が彼であり<これ>は彼じゃない。彼は何処ですか。ほら僕の背筋が凍るから、僕は今背筋にしかいないのです。彼もそれに付随している。共に生きるとは?患いとは?取り憑きとは?僕は彼を恐れている。どうして?恐れていない。僕は、こうなってしまった彼をなんとも思っていない僕と、彼が蘇ることをこの世界が阻止することをどこか望んでいる僕を、恐れている。
5
僕の世界でみんなみんな朽ちないのは僕が寂しがり屋だから。ひとりぼっちが嫌だから。僕は思い通りにならないただ一つの事に、いいえ、思い通りにならないのを受け入れられないただ一つの事に参っていたから、簡単な事象でないと受け入れられなかったのです。簡単な事象でないと受け入れられないのは元々ですが尚更。だから僕は我儘を通せる形をこの中で形成しました。墓なんてあるわけないでしょう。終わらせず整理しないことで、沢山の僕と僕は、ずっと一緒にいたのです。僕は僕を愛しています。愛して、愛している。その応用。
6
夜、赤信号の光を照り返す濡れたアスファルトの長い長い長い道を行って帰るだけの散歩をして帰ってきたら、僕のベッドにレクト君が横たわっていた。夜の雨にびしょ濡れになった僕と同じ位びしょ濡れのまま、掛け布団の上に、体を横に向けて、3秒後にうずくまりそうな姿勢で。髪で顔が隠れている。これは抜け殻。僕には解る。そういう意味ではこれは彼ではない。眠る彼はいつもどこかマネキンのようだけれど、これは人形のようだ。関節がとても自然に布団に沈んでいる。彼なのに整頓されていない。彼ではない。拡散している。そしてしていく。空間と彼の明確な差がなくなっていく。
「”愛する人々を殺すよりなお不幸な行為がこの世にはある”。あなたが好きな本の一節ですよね。僕の言いたいことがわかりますか、愛は許される我儘を増やす為の言葉ではない。あなたが誰を慕おうがそれはあなたの自由です。だがその自由の延長であなたは何をしようとしていますか?いいえ貴方の場合、意識の伴わない動作に本質がある。しようとしているのではないのでしょう。何が起こると予想されますか?又は何が進行している可能性が高い?なるべくオブラートに包まない言葉を使ってください。あなたの思考は僕が一番ズレなく読み取れる。」
“愛する人々を殺すよりなお不幸な行為がこの世にはある。”
7
君は誠実で、実直で、未熟で、可哀想で、正直で、やはり可哀想。可哀想だ。これは自分の足場の高さを調節する言葉です。可哀想。僕の世界にシミを残して僕の世界で消えていき、残骸を介して思い出と一体になり僕に寄り添う呪縛霊。僕と決定的に違う彼と、僕とそう違わない彼。僕の世界に来なければ、彼等はきっとまた蘇っただろう。可哀想。君は可哀想な子だなとか、彼は言うだろう。可哀想なのはあなただとか、彼は言うだろう。誰しもがそう言うに違いない。大方がそう判断するに違いない。客観的になりたければ、自分を小説の挿絵に紛れ込ませればいい。見えてくる、悲しい背中、大きいのに小さな背中、あからさまな悪なのに否定することをさせない脆い脆い心を、僕は隠さず見せて差し上げればいい。傍観者よ。哀れみが味方である内は僕は丸裸ではない。可哀想であるならば、誠実で実直で未熟で正直じゃなくとも許される。とても、とてもとても自分勝手でいる為に悲しみに媚を売る。悲劇の中にいる間だけ、いただくことのできる権利というものがある。享受する。感謝する。それが僕の口に合うのだ。歩調にも、合うのだ。
8
グレブさんは正しい人だった。いちばん広い世界をお持ちだったし、何もかもを完全にわかっているわけじゃないところも正しかった。思考に行ったり来たりがあって、きちんと実証を交えて努力を惜しまないところも正しかった。正しい人だった。それはレクト君にだって言えたことだ。
9
もう誰も僕を咎めない。元より誰にも咎められていない。僕も僕を咎めない。苦しめようともしない。苦しめるとすれば事実のみであるし、もう、もうそれはいい。もういい。もういい。はじめから。僕が変えられないものを無理に変えようとしているように見えますか、「そんなことする人間に見えますか?」僕が意図的に崩そうとしたところで、決して崩れないものがありそれは変わらず残る。そういうものとどう付き合っていくかだろう?しかしそういうものが、そういうものの残骸や抜け殻が僕の元に漂流してきたらそれは何を意味するのですか。崩壊済。使用済。崩れ得ないものが崩れ、それが僕の世界に現れ、これ以上朽ちることもリストアすることもない。僕は体の一部を使って哀しんでいる。また別の一部を使って安心している。安心している自分を俯瞰で観察している。そして秘めたものを監視している。彼等は僕の大切なものであり僕の枷だった。僕は枷を愛するタイプの人間です。僕は枷を愛するタイプの人間でした。彼等の時間が止まっていれば、僕にとってかけがえのない大事な人達。”思い出は美しい”。間違っているか間違っていないかなんてどうでもいい。僕の中の彼が修復しないからだ。正しいは崩落した。大した問題は相変わらず起こっていない。ほらまだ僕は、ぬるりと正しいままです。きっとこの調子ならばいつまでも。永遠と同じ位にいつまでも。
10
僕から見た彼らは完璧だった。黒と白、赤と赤。適度に完璧じゃなく、前進と後退が可能だったところも含めて完璧だった。球のようだった。均等に張り詰めた完璧な形だった。対だった。最高のバランス。幸せであった。象徴。そう象徴だった。ひとりはもうひとりの為に生まれ、もうひとりの為に歴史を刻み、その歴史はもうひとりが関与していなくとももうひとりであった。きっと彼はこの時この形の相手を受け入れる為に繰り返していた。長く。それは形を変えた愛しい人であり、彼の宿命であった。「反吐が出る、」本当ですか?反吐が出せますか、どいつもこいつもとか言えますか、僕よ?”彼の体温、声、感触、香り、彼が与える何もかもが僕にとって心地悪ければ、未練もなにもなかっただろうか。要らないと言える決定打でもあれば、理由でも見つけていれば少しは楽だっただろうか?” 意味のない思考。人は人の思考をなぞる。僕も人でいるつもりだから、無駄な思考も欠かさない。揺れない水面が白い空を映している。僕はいつだってそこにいる。人は誰だってこういう場所を持っている。みんなそう。人は人の思考をなぞる。いつの間に隣にあったのだろう、相変わらず朽ちないガラクタの隣で考えた。”僕がもっともっと彼の中から消えていれば、またはもっと、彼の必然であれば?それとも、あなたが彼にぴったりでなければ、もう少しだけ崩れていれば、もう少しだけダメだったならば?もしくは彼に対してあなたが完璧すぎて、一緒になんてなるべきじゃなかった、そう言って彼が涙を流せば。涙を流す彼の肩を抱くのが僕ならば。正しいもう一つの道として待っていられたなら” 。なければ、あれば。責任転嫁は積もるが山ではなく穴になる。僕はわかっている。思考をぶちぎる。ぶちぎった思考を平らにして、平らにして、平らにして、水切りしようとしていた。平たい石を探していた。水切りをしようとしていた。平らな石なんてなかった。平たい石を探すことはやめたけれど四つん這いで何かを探すことはやめなかった。思考を平らにして?尚余りあるこの起伏をどう平らと呼べばいいのですか。半身が水に浸ったガラクタが無い目で僕を見ている。どちらさまですか?判別出来ない程壊れているのか。何が?どうしてここに?「可哀想に。」「可哀想に?」言われ慣れました。誰かに実際言われたわけでもないのに、言われ慣れたのです。分かるか?分からないよな、あなたに、お前に分かるはずがない。水面下のガラクタの右目に手をかけた。僕のひびよ。正しい僕よ。僕は何も、何も探してなんていない。
「言われ慣れたのではない、言い慣れたのです。」
11
僕は語れども表さない。何も表さない代わりに流出させる。毒の涙。低温で気化し、比重の重い気体が床を這う。無色無臭の気体で、床面が密かに使い物にならなくなる。誰かが、誰も彼も彼女もが鼻から口から吸い込んだ高濃度の蒸気。明らかな変化なんて親切なものは与えない。想像してください。気分の優れない誰かがしゃがみこむのを僕は黙って待っている。座りますか?少し横になっては?平気で言います。中毒になって、昏睡して、僕の邪魔をしないで僕に寄り添うお人形達。「寂しがり屋の僕」というアイコンが、ただ一つを除いて何も必要としない僕を覆い隠している。僕が初めに引きずり込んだものに、僕以外の何者の指も息も届かないよう。僕が初めに引きずり込んだものが、不可視であるように、認識不可能であるように、すっとぼけ続けますよ、口にしないし目線でも語らない。知りません。知りません、知りません。僕にはもう責任を表現で回避することすらする気力もない。生き方そのものなのに。しかし回避する理由もない、構わない。回避で守れるもの、守る必要がもうないのです。知りません。分かりません。
12
僕はいずれ僕の形をやめる。彼が彼でなくなっても彼に、そして彼の作り上げた彼に僕は流れ込み続ける。視界の端に、過去の闇に、デジャヴに、トラウマに、好き嫌いに、根源の思い出せない違和感に。不快感すら回数認識されればほら、もうまるで運命のようでしょう。混入。あなたは勘違いをする筈です。混入。ここまでくれば運命だと言ってくださいますよね。僕はそういうものになる資格のある唯一の存在です。そうでしょう。そうだと言ってくださいよ。僕はいつだってあなたの真後ろに投影されている。今この時だって決して0ではないことを、知っておいてください。
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