先輩の病室にいたら、グレブさんが来た。小さい声で僕を呼んだ。れっくん、と。続けて「シャール君起きないね」と言った。小さな声で話す分には可憐な人だった。グレブさんは、座る僕と、ベッドに横たわる先輩に、静かに近づく。僕は思い出している。先輩の無気力と僕の無力を。以前の先輩に、グレブさんを守りたいと言ったら、傲慢だと笑われたことがある。僕はたくさんのもの、たくさんと言っても僕一人で指折り数えられる規模のものを守りたがっている。管理、保全したい。グレブさんがまた僕を呼んだ。僕は短く返事をした。ずっと先輩を見たまま。グレブさんも先輩を見た。保護された先輩には多くの傷があった。肉体と精神に広く。先輩は僕の、「管理、保全したい人リスト」の上位にいる。僕には引っ張りあげなきゃいけない人、落とし込まなければいけない人、縋り付く必要のある人がいるが、先輩はそれらだった。先輩は昨今の一連の騒ぎの渦中にいた。最たる被害者だと評価された。彼は自由を過剰に奪われ、無責任に放擲された。彼の自由は不全を起こした。肉体を取り換えても定期的に倒れるようになった。グレブさんがまた僕の名前を呼んだ。僕は短く返事をした。騒ぎにより現階層は急変した。餌木さんが消えた。一万堂から多くの離反者が出て、ゲリラ化した離反者が旧ビジターセンターを占拠し都市を名乗り始めた。公共施設や闘技場でも多くの役目、職業が入れ替わった。上下した。いかなるキャストからも傘持ちからも、不変とか、安定ははく奪された。グレブさんは餌木さんと同じ名の役目を担うことになったが、同じ役目を担ったのではない。以前の役目を取り戻したのでもない。グレブさんはいいタイミングで手綱をもらったと言った。ニコニコした。僕は今優先して支えるべきはグレブさんだと判断している。
先輩の指摘のすべてが間違っているとは思わない。事実については言う通りだった。僕は「若く」「正常」かつ「不完全」で生存を「特定の人物の体液に依存している」「マスターキー」の「監視役」だが、逸脱を始めている。「先輩の言う通り」。
僕が誰だとか僕はいるのかとか、要るのかとかの、先輩の故意の意地悪をかわすコツを僕は身に着けていく。するといつの間にか僕は、僕の役割に怯えている。そのまま、階層の下半期に至った。僕が、信念の割に空洞のままである原因は、僕の在り方にある。空洞である必要があるという範疇を優に超える。「必要より必然が勝る。意識より事実が勝る。」僕の元の役割こそ、僕がどれだけ進んでも、「空洞」から逃れられない原因だと先輩は言った。それを何とでも言えと、僕は心の底からそう思っているけれど、あまりにそう繰り返しすぎだ。引っかかる。逃れられるなら逃れたいのだろうか。仮にいざ糸を断ち切られ、影響から無事逃れて、重力に負けない自信が、本当はない。断ち切るなら僕から断ち切らなければいけない。断ち切られたとしたら、変わらないから。状態を与えられたのでは今までと何も変わらないから。
先輩から逸脱してもいいのか/僕から断ち切ったとしても、先輩が、何も言えない/言わない僕に対してあんな調子なのに、僕はそれを無視しつづけるのか。故意に?それですっきり?収まるはずがない。先輩が僕を殴るうちは、収まるはずがない。僕は何も言えなかったのではなく言わなかった。言わなかったのではなく言えなかった?僕は正しい選択をした。しかし選択権は?あったのか?
“君には生まれついて選択権がない分野が準備されている”
皿の上に乗せられたように。あつらえられている。
「必要より必然が勝る。意識より事実が勝る。」これが僕と先輩の関係なのかもしれない。フィールドと駒。主と影。まさか、まさか。僕は思う。そこまでの差があったとして、一体何が対等だろう?
僕は諦めなくてもいい問題を運命だと 諦めかけているのか、先輩の甘えに甘えて自らの道を断っているのか
甘受してるのか拝受しているのか判断できない
僕が何か選択する際、必ず基準にするものを思い出さなくてはいけない。
僕はどんな誰だったか思い出せなくなる日が来るかもしれない。
僕は引っ張り上げなければいけない。まずは僕を。
「僕らしくない。」僕が規範とする中軸は、真っ赤な炎を纏っている。
「グレブさん」
しゃがんでベッドに凭れて、先輩の枕元に顔を寄せたまま、僕を見上げたグレブさんの、 作り物じみた漆塗りの瞳を僕は見下ろしている。僕はグレブさんの瞳を通り越して、ベッドを、床面を、通り越して、存在しない中空を見つめている。見つめてさえいない。安定とは、無知とは、僕の立場とは?この人は知っている。この人が決めたのだから。もし誰もが知っているとしたら?それが、哀れな何かなら?僕はそこに恐怖を感じはじめている。僕には恐いものがある。僕は僕に力がないのが、今は、恐ろしい。見透かされるほどのものすらないかもしれない。その僕は、助けたい誰もを助けない。グレブさんは少し笑っている。先輩の毛先のはねた髪を指で弄んでいる。
「例えば、僕とかは、必要だから居るのではない。居るし、居るんだもん、既に。そして作ったから、ここを。ここにとって僕が必要なんじゃなくて、ここが僕にとって必要なんです。僕にこの世界の責任があるんです。でも君は 世界に必要だから、世界に君の責任があるんです。じゃなきゃ 君が以前言っていた様に 、空っぽなのに立っていられるはずないんです、その強度で。だから、れっくんは誰よりも支えられている。美しい事実ではないけれど。君が必要です。そこだけは自信があるでしょう。それを、施してあるキャストのは一人だけだよ。僕が、したんだもん。」
グレブさんは先輩の頬をつつきながら話す。常識を子供に説明するように。グレブさんの高い、静かだけれどよく通る声を僕は、好き嫌いに関わらず、繰り返し聴きたくなる。声に集中してしまって言葉の意味が頭を超えて、どこかに勝手に刻まれていく気がする。僕は音が好きだから。
「聖は強い望みと怒りで立っている。僕は世界を立たせてるから立っている。」
グレブさんが先輩の額に手を添える。
「シャール君は、立っているだけだから、訳があって立っている君とはちょうど真逆ですね。」
シャール君に何か言われるんでしょ。とグレブさんが言った。僕は何も言わなかった。
先輩の無気力と僕の無力は現象としては真逆だが、それぞれウィークポイントだ。グレブさんが、座る僕の膝を支えにして立ち上がる。
「僕がいないと落ちていく人がいるからって、言ってたじゃないですか。みんなのことを言ってるけど、考えてたのはシャール君のことでしょ」
グレブさんが僕の背中を撫でる。
「聖のこと思い出してみたら。しっかりしなよって呆れた顔した聖を思い浮かべたら、君はやる気が出るんだってね。言ってましたよ。僕に。」
背中を撫でる掌。
「お前も僕と変わらないってシャール君、いうけれど、僕はそうは思いません。僕にとって君は事実としてひとりだけだもん」
背を優しく叩く掌。
「グレブさん」
「うん」
「グレブさん」
僕の手に手を添えて、そのまま適当に触って遊んでいる。僕より小さな手。気まぐれに動く。僕は見上げている。 漆塗りの目に焦点を合わせる。
「僕が弱気にならないように、見ていることは貴方に可能ですか」
「うん」
「グレブさんが規定したなら、グレブさんが思ってる僕は僕だから」
「うん」
「見ててください。先輩に飲まれそうなんです。もう、飲まれるかもしれない。俺は弱者です」
「うん」
「先輩の馬鹿にする、馬鹿みたいなこと、僕の、真剣を、そのまま口にできなくてはいけない」
「僕もそう思ってるよ。だからそれで正解です。」
ぎゅっと手を握って、目を細めて優しい顔をするグレブさんは、安心した子供のようにも、安心した親のようにも見える。
先輩が、グレブさんの赤い唇を、子供の悲しい唇と形容したことがあった。
「父と母の喧嘩を どうすることもできずに ただ聞いて、見ているだけの、フォークを握ったままの小さな手、ミートソースを口角につけたままの小さな男の子のお口。 泣いている母親に笑ってほしくて、口紅をぐるぐるにつけて、母の元に駆けていく女の子のお口。
言ってることわかりますか。ピンとくる?僕には、グレブさんが、そうじゃなかった過去の記憶がある気がする……実際、以前はそうは見えなかった。僕が変わったからなのか、彼が変わったからなのか。美しい炎と対峙したみたいな、敵わない って感じがない。」
僕が大きくなったのか、彼が小さくなったのか、と言った。先輩は隠すでもなく悲しみを表した。僕はグレブさんを頼りにしていると同時に守りたい。先輩も彼を頼りにしていた。過去の彼を思い出せばわかる。今もそうすべき、けれど先輩は閉じている。先輩は以前の先輩とは違う。しかし何も変わらない。僕はこの人達を置いてけぼりにしてる場合ではないから、先輩に飲まれている場合でもない。
先輩が一万堂の檻から帰ってきてすぐ、 先輩は、僕にすがって泣いた。涙を、色のない嘔吐だと形容して。僕はあのとき彼を慰めたが、僕の、先輩への友情が彼への慰めに役立ったのではない。僕が愛玩動物なだけだった。泣いている先輩を見つめていたら、彼は 見るなと言った。可哀想だと感じたら、先輩は僕をはたいて、立ちあがった。僕は先輩を睨んでから目をそらした。それで初めて、僕は彼を慰めることに成功したのだ。無力だった。可哀想なのは僕だ。人を哀れんでいる暇なんてない。
今も彼を見下ろしている。彼を見上げている。