1
私がその家に派遣されたのは一昨年の12月の半ばで、その所為か今でも、その家の子の、その年のクリスマスの様子が印象に残っている。彼は9歳にしてサンタさんを信じていなかったのだけれど、彼がちっこい体でちっこい顔で、クリスマスには何も期待していません、というそぶりをしているのを見ていたら、大人としてなんとなく、意地になって、嬉しい顔させたくなったものだった。大したことはできないけれど、クリスマスのお菓子をこっそりお部屋に置いておくとか、些細な、本当に些細なクリスマスらしいことでも、しておいたら、次の日とても嬉しそうにしていた。そして不器用ながら、嬉しさをむずむずと表した彼を見て、はじめて安堵したのを覚えている。彼は名前を国丸といった。私はその時を境に国丸さん、と彼を呼んでいる。その次の日に彼が、やっと名乗ったからだった。「国丸が自分から名乗るまで、名前を呼ばないでやってください、変わった子で、本人の希望なんです。」母親からは事前に、そう言われていた。母子家庭の子供らしいといえばいらしい、甘える訳にはいきませんといった振る舞いと、時に垣間見える頑固すぎるほど几帳面な振る舞いが彼の性格をよく表している。彼は常に綿の手袋をしていた。潔癖症でもあるらしかった。彼の母親は、契約前、一度国丸さんを連れて、会社を訪問した。「子供がハウスキーパーさんといつもうまくいかないみたいで、今度はちゃんとお会いしてから契約しようと思って」「家の中に知らない人がいるのが嫌だって言うんですけれど、仕事柄、どうしてもお願いしたいんです。」彼はその時、席に着かずに、母親がかけている椅子の後ろに落ち着きなく隠れていた。おかけなさいな、お行儀悪い、と注意されながら、ギラギラとした上目遣いで、たえず私の方を伺っていた。彼は11歳になった今でも、時々この顔をする。むううという効果音を付けたくなる、頑固そうな、言いたいことが胸でぐるぐると彼を押し付けているような顔をする。そんな様子ではじまりはしたが、彼は数ヶ月もすれば彼なりに私に慣れた。それなりにお話できるようになったころ、彼は私を自ら、「サンタさん、私にはこない」と言った。夏にさしかかろうという頃だった。彼はサンタさんを信じていないわけではなかった。
2
午後の仕事中、県さんから、国丸さんを迎えに行ってほしいと電話があったことがある。「学校でちょっと、喧嘩したらしくって、迎えに行ってやってくださいませんか」と。学校は小学校にしては彼の自宅から遠い。電車で2回も乗り換えた先にある国立の小学校で、進学については幼稚舎からエスカレーター、中等部へもエスカレーターだという。幼稚舎はまたひと駅ほど離れたところにあるらしく併設されていない。小中学校合わせた分の、見たことの無いほど大きなグラウンドに面して、初等部と中等部のそれぞれの校舎が隣接して建てられていた。小学校と中学校の門が一つにまとめられて、学校名が左右にシンメトリーに設置されている様を目の当たりにして、異国の学校に来たような気分だった。国丸さんは保健室にいた。養護教諭は私に、仲直りは担任の先生を仲介にして済ませたことをまず告げた。次に、突き飛ばされた拍子に頭を打ち、たんこぶを作ったようなので一応病院へ行ってくださいと伝えた。国丸さんは貰った保冷剤で頭を冷やしながら、時々するように俯いてむっとしていた。学校生活の中、制服を着ている国丸さんが、なんだかとても萎縮して見えた。私の車に国丸さんを乗せたのは、その時が初めてだった。国丸さんは結局、病院へ行くまでも、診察が終わっても、何も話さない。診断は特に問題ないようだった。「少なくともあと24時間は安静に、目を離さず、変化があり次第またすぐ来てください。」国丸さんは医者とも私とも目を合わせず、何も話さずではあったが、その病院がたまたま、私の幼少期利用していた病院だったので、私から話す分には話題に事欠かなかった。「ここの眼科で始めて眼鏡かけなきゃならないって診断されたんですよ」「待合室のピアノの自動演奏、おばけが弾いてるって本気で思ってた」「この売店でいつもキャラメル買ってもらってたんです」病院のにしては手狭で、物の少ない古びた売店を見ながら、何か欲しいものないですか、と国丸さんに声をかけた。彼は声で返事はしなかった。先程、私が小さいころ買ってもらっていたと指さしたキャラメルを手にとって、私に渡し、先に待合室のソファに歩いて行った。支払いが終わって国丸さんの横に座りキャラメルを渡しても、国丸さんは私の方を見なかった。その日彼がはじめて発した言葉は、キャラメルを私に渡し返して発した「あけて」だった。ビニールの包みを開けて、小包装の紙を剥がして、彼に茶色いキャラメルを手渡して、私もひとつの包みを剥がして自分の口に咥えた。彼は包み紙を丁寧に折りたたんでキャラメルの箱に仕舞っていた。私にはだんまりしている彼がなんだか楽しそうにも見えたし、気まずそうにも見えた。帰りの車の中で、国丸さんは「喧嘩した。どう思う」と言った。返答には時間を要した。私は、国丸さんくらいの頃の自分に当てはめてしか、話すことができなかった。国丸さんのことみんな、別に大事にしてくれたり、味方してくれたり、するわけじゃないんでしょう。じゃあ、たまには殴るくらいしてもいいんじゃないですか。私は、国丸さんくらいのとき、そうしたけれど。と言った。それしか言えなかった。国丸さんが大きなお怪我するのは嫌だから、身は上手に守ってください。持ち帰れそうな問題なら持ち帰ってきてください。私にも考えさせてください。とも言った。彼はキャラメルの箱を、カバンにしまわずにずっと白手袋の手に持って、窓の外を見ていた。
3
国丸さんが、「飯沼は、何か欲しいものないの」と私に問うた。誕生日が近いでもないし、何か他に当てはまる祝日や記念日があるでもない。リビングで宿題をしている国丸さんのお側にいる時だった。国丸さんはクッションをお座布団にして(県さんはこれを嫌がるのだけれど)ローテーブルに向かっていて、私はその後ろでソファにかけて、彼の宿題を見ていた。私は少し考えて、国丸さんの書かれたお手紙をいただきたいです。と答えた。けれど彼は、むうっとした顔をして、「手紙じゃ、いけない。物をあげたい」と言った。ますます理由がわからなかった。けれどなんのプレゼントかを尋ねるのも野暮な気がして、最近甘いもの食べてなくて。お菓子がいいです。と答えた。国丸さんは国語のドリルから目を離さずに、「明日買いに行って、明後日か、明々後日の朝にリビングの机の上に、置いとくから、貰ってください。」と言った。手作りされたりは?と聞くと、少し手を止めて、今度はむっとせず、「それじゃいけないの」と言った。強い筆圧でドリルに鉛筆の線が刻まれていた。2日後、国丸さんと県さんが出掛けた後のリビングのテーブルには、国丸さんが私にくださったであろうお菓子があった。包みからよく見栄えがする。高級な和菓子のようだった。国丸さんがひとりでそれを選んだのを想像するのが難しかったので、県さんと選んだのかもしれないと思ったけれど、彼がお母さんにそういう助力を仰ぐところを想像するのも、同じくらい難しかった。そのプレゼントには、他の、次の、ほしいものを尋ねる文面のメモがのせてあった。私ははじめの時点で気付くべきだったのだけれど、国丸さんは別段、私にまつわる記念日だから、プレゼントをしてくださったのではなかった。「あなたは好ましい。これからもよろしく」と伝える方法が、物品や金銭を贈る以外にないと、国丸さんはお思いなのかもしれない。中学生の頃にいた、自称親友に嬉々として学食を奢り続けていたお金持ちの女の子を思い出した。充分に誰かに甘えられずにある程度成長したりすると、甘えて好かれることを知らない分、目に見える物以外で人を繋ぎ止める術を、選択肢として選べないんじゃないだろうか。加えて国丸さんには、母である県さんに潤沢なお小遣いに加えネットショッピングの知識まで与えられている分の危うさがある。将来、恋人にならまだしも、お友達にこういうことするようになってしまっては、国丸さんが本当に大事にしたいと思う人間関係から崩れていってしまうかもしれない。きちんと、お話をしなければならない。それを心に置きながらも、彼なりに私に好意を示したそのお気持ちを、嬉しくも感じた。素直にプレゼントのセンスに感心してもいた。国丸さんはもともと大人びたところがあるけれど、これを選ぶことができるなら、尚更、級友、同年代の子と話していても、つまらないんじゃないだろうか。みんなとは違うことを考えてしまって、ここにいる必要はない、と一歩引いたところから、彼らを眺めてしまうんじゃないだろうか。私には、自分の小学生の頃や中学生の頃と重ねて国丸さんの現在を類推することしかできない。国丸さんに接すると、自らが人生をさぼってきたことから生まれる、選択肢の不足を自覚する。
国丸さんが帰ってきてすぐ、プレゼントのお礼を申し上げたいのと、是非一緒にいただきたいので、と彼を呼んだ。学校指定の焦げ茶色のランドセルを置いて、リビングに顔をのぞかせた彼は、一目でわかるほどにそわそわとしていた。表情が、喜んでくれたかなあ、と言ってるみたいで、あまりに健気で可愛らしい、いじらしい様子に私の方が耐えられなくなって、おいでおいでをした。ソファに国丸さんを進めて、プレゼントとお茶の支度を運んで、彼の横に並んで腰掛けた。真横に並ぶと国丸さんが、一段と小さく思える。「私はいい、私のも、飯沼が全部食べて」国丸さんは少し日に焼けた膝小僧のあたりでもじもじとさせていた、手袋をした両手をテーブルの上に差し出して、お皿を私にずずずと差し出した。それは果実がまるまる使われた和菓子で、大人が少し目上の方に贈り物をする際に選ぶとちょうどいいような、華やかなものだった。国丸さんに、とても美味しいし、貴方からの贈り物だからこそ、本当に嬉しい、その心をなるべくまっすぐ伝えた。ひとりで選んだのかを尋ねると、彼は照れ臭そうに頷いて、脚をもぞもぞとさせた。電車の定期の圏内にある大きな駅を降りた、県下最大の商店街の一角にある老舗の和菓子店に、学校帰り、わざわざ買いに行ってくださったという。
「そちらの、国丸さんがくださった分、お母さんにあげたらどうです。すごく喜ばれると思いますよ」
「母はいい。母の日とか、誕生日は、お花をあげるから」
私が彼くらいの頃は、大事な人にお礼を表す心なんて、ただのいっぺんも持ち合わせていなかった。くださった国丸さんの分は、国丸さんの宿題が終わってからまた後でいただくことになった。私にはお茶とお菓子をゆっくりいただいて、こうして息をつくことが、ここしばらくなかった。それは、こうしてみて、やっと気がつくものだった。見えていなかったものが見えるようになった気がした。感謝と、親愛で、真横の彼を撫でようと手が伸びたが、触れても構わないのか、今まで一度も触れたことがないから、わからない。手を引っ込める訳にもいかず、そのまま、「なでなでしても、いいですか?」と尋ねた。「いいですよ。」と彼は言った。彼は目を強く、ぎゅっと閉じていた。私は柔らかい髪が絡まないように、髪の流れる方向の通りに、ゆっくりと、はじめて彼を撫でた。彼はもう目をぎゅっとはしていなかったけれど、目を開いてもいなかった。私は、お話しなくてはいけないことがあってこうして国丸さんといるくせに、いざお話ししようという段になると、何を言うべきではないか、わからない。撫でられ慣れていない国丸さんの震えるまつげを見ながら、まっすぐな気持ちで贈り物をくださる心の美しさを守ってほしいと、隠してでもいいから、少しずつ、大事に使ってほしいと、ただ願うしか、できなかった。
「もし国丸さんが私にプレゼントをしなくても、もしも、国丸さんが私から、何か、いっぱい奪ったって、私は国丸さんにいつも、これからもよろしくお願いしますと、思っていますよ。」
私はそういう内容の言葉しか言えなかった。それで何が彼に伝わったかもわからなかった。彼は返事をしなかったけれど、撫でるのをやめると、「やめなくてもいいよ」と言った。
「まあ、てっきり飯沼さんのお誕生日なんだと。」
もう、勘違いしちゃったじゃない。と県さんに言われて、国丸さんはなんとなくバツが悪いような顔をしていた。県さんのお仕事からのお帰りと、私の退勤がほぼ同じタイミングなので、県さんとは玄関でお話しすることが多い。県さんで私に用意してくださった贈り物を県さんは、「渡したいんでしょ?飯沼さんにどうぞして頂戴」と言って国丸さんに差し出した。国丸さんは大人しく紙袋を受け取って、それを私にくださった。この辺りで有名な精肉店の牛肉と豚肉の詰め合わせと、コロッケだった。
「この子、飯沼さんのことやたらとお気に入りみたいで、すごく助かってるの。これからもお願いしますね。勘違いで買っちゃったものだけれど、その気持ちとして受け取ってくだされば結構ですから。」
そう言ってくださった県さんの、隣とも言えない隣に、国丸さんは控えるみたいに引っ込んで、言いたいことがありそうな顔をしていた。いよいよ帰るという時に、国丸さんは駆け寄ってきて、私の持つ紙袋をひっぱって、その中に一枚の紙を入れた。「飯沼、また明日」とも言ってくださった。メモを手渡さず紙袋に入れたのは、「帰ってから読んで」という意味に思えたので、私は帰宅後にそれを拝見した。国丸さんを撫でたあの後、お部屋におりますと言ってひとりになっていらしたので、その時に書いてくださったのだろう。
4
親元を離れて通っていた2校目の大学を中退して殆ど同じ時期、元々片方だった親が死んでしまった。もう、実家に戻って、すぐ近くの老人ホームかなにかで働こうと思っていた矢先に、とある縁で繋がった会社がここだった。広告宣伝を一切行わずにそこそこのお家ばかり相手にしている老舗の、家事代行と、ベビーシッターサービスの業者だった。大卒の正社員入社試験がかなり難しいらしい、と実務の先輩の女性が噂していたけれど、私達には関係のない話だった。家事代行の作業員の殆どがコネ入社だそうだから。社長が社長の人脈で直々にとってくる仕事が多いので、作業員だけは、社長が直接人柄や生い立ちをまあまあ把握しているような、要するに知り合いとか、知り合いの知り合い、を積極的に使っているのだと聞いた。私は、使っていただいた際に飛び抜けていい評判があるというわけではないらしいけれど、男性の作業員を強く希望されるお客様が一定数いるので、便利使いはされているらしい。これも、実務の先輩の女性が噂していた。私が雇われてすぐの頃、作業員としてつい先日まで学生だった男が入ってきたのが珍しかったらしく、受ける部署を間違えたのかとよくからかわれた。社長が私を県さんに紹介し、実際に県さんのお家に雇われることが決まって直ぐに県さんが、1日5時間週6回という勤務時間とか、駐車場お貸しできますからお車でどうぞとか、仕事道具についてとかをテキパキと指示されたのとで、当初は県さんに、この方、慣れたもんだな、何人取っ替え引っ替え雇ってきたんだろう、と不安に思った記憶がある。とりあえずは馴染んで、国丸さんをよろしく、ともおおせつかって少し、それなりの期間勤めてわかったことは、ここは独特の、一種浮世離れしたとも言えるペースに守られたお家だということだった。私が、国丸さんを、男の子ではあるけれどお姫様のようだと感じるのは、そのせいだった。県さんはそんな国丸さんを心配していらっしゃった。「あの子は文句も言わないし、反抗もしないし、赤ちゃんの時から、おしゃぶり咥えさせれば直ぐ泣き止むし、手がかからなすぎるくらいです。物分かりが良くて、張り合いがないくらい。」と言ったことを漏らしていらした。クールなお母さんだと初めは思っていたけれど、県さんは、国丸さんのことを心配されている。愛していらっしゃる。ただ、それをおくびには出さない。
「私は褒められた母親じゃありませんし、詮索されたくないことや有難いご助言の頂きたくないことだらけですから。特に子育てについて……そういうところを、目線だけでさりげなく叱責してくるような、女らしい女のお手伝いさんとかが、時々本当に、嫌になっちゃうの。あなたって、生い立ちとかも、そう褒められたもんじゃないし、かえって丁度いいのよ。いろいろとね。悪く思わないでね、褒めてるのよ。」
迷子
国丸さんが迷子になったことがある。もう10歳で大きいので、迷子というか、単にはぐれただけと言った方が、失礼でないのかもしれない。県さんのお車の都合で、2.3日、私が国丸さんと県さんをお迎えにあがる日が続いたのだが、その最終日、お迎えついでに、県さんの仕事場近くのショッピングモールで国丸さんと時間を潰すことになった。その日に私は国丸さんを見失った。私がショッピングセンターのインフォメーションに国丸さんをお呼びするアナウンスを依頼して、最終的には無事出会えたのだけれど、国丸さんは、インフォメーションセンターの前に来てくださった時点で、今まで一度も見たことのない、怖いお顔をされていた。少し、びっくりしてしまうくらいの。ごめんなさい、国丸さん。と言うと、国丸さんは、私の袖の端を掴んで、引っ張った。
「私、飯沼の下のお名前を知りませんよ。」
いつもする、むう、という顔を、もっと強くしたお顔をされていた。それは迷子になったからではないのかもしれない。自惚れまじりの予測だが、私が、私の名をお伝えしていなかったから、「なんで私が、飯沼のそんな大事なこと知らないんだ」って言っているみたいに見えた。
「飯沼清と申します。清いって書いて、そのまま、きよです。」
私が名乗ると国丸さんは、裾を掴む手をもう一度ぐい、と引っ張って、「私は、県国丸です。知ってるって、わかってるけど」と言った。彼もインフォメーションセンターで私を呼び出そうとしたそうなのだけれど、私のお名前を知らないことに気がついて、お名前も知らない人を、呼び出すことがおかしいことなのか、そうでないのかわからなくなった途端、それ以外のいろいろなことも一気にわからなくなって、何もできなくなったとのことだった。
部屋
国丸さんのお部屋に、初めてきちんと招かれた。前提として、国丸さんのお部屋には誰も立ち入らない。例外はあるが、ベッドシーツを換えるために、お掃除のために、といった明確な理由があった上で、国丸さんに立ち会っていただいて初めて立ち入る。私から、そういった理由でお部屋に入らせてくださいねとお願いすることはあっても、国丸さんからお部屋に来てと言われることは一度もなかった。「部屋じゃないとだめな、とても大事な事だから」と彼は言った。彼の部屋は広々としている。ダブルベッドがお部屋を占めても空間を圧迫しない程度には。こんなに広いお部屋でこんなに広いベットでお休みしている国丸さん、寂しくないのだろうか。ベッドを見ていると丁度、ベッドに仰向けになってほしい、と彼は言った。お腹の上で手を組んで、目を閉じてほしい、と。国丸さんのベッドは禁域というか、手をかけたり、もたれることさえ控える場所だった。
「本当に構わないのですか」
「特別だよ、でも、寝てくれなくちゃいけないの」
いつにも増して落ち着いた、少年らしく掠れた印象が、助長されるようなお声だった。彼は、人体の春と言える季節の真っ只中にいた。日に日に成長している。国丸さんはベッドを背にして立つ私の腹部に手を添えて、少し押すみたいにして私をかけさせた。私がかけていて、彼が立っている。この目線の近さが、非常に稀有なことに思えた。掛け布団を下にして横たわり、目を閉じた私は、微細に緊張し、強張っていたことと思う。しばらくすると目に少し重みのあるタオルか何かがかかるのを感じ、自然と息をついたその一瞬が、私をほんの少しリラックスさせた。国丸さんの気配はベッドの側から離れず、しかし私に近付くでもなかった。私は閉じた瞼の暗闇の中で、国丸さんを探すように意識を動かしていたけれど、それは彼の望むことではない気がしてすぐにやめた。私はただ横たわり、息をするだけだった。しばらくして布が取り払われ、目を開けていいという言葉と共に目を開いた後も、彼には特に変わった様子はなかった。目を合わせず、「ありがとう」とだけ、彼は言った。少年らしい横顔に、お力になれたのでしょうか、と聞くと、彼は小さく頷いた。
7
国丸さんは年末年始、ほとんどの時間をこのご自宅で過ごすという。県さんのご実家はお住いの近くにあり、県さんはそちらと折々交流している。彼女は年末年始はご実家に長くいたり、宿泊されたりしているけれど、国丸さんはそちらにいると落ち着かないので、先にご帰宅することが多いのだと伺った。おじいちゃんと、おばあちゃんが苦手なのだそうだ。今年の年末年始は国丸さんと私がお家に残り、県さんはご実家に泊まられる。
「つかぬ事伺いますけれど、あなた年末年始はご家族と過ごされるの?」
「いいえ。一人寂しく。」
「まあ、訳あり?……なんて、なんとなくそんな気がしたから聞いたのだけれど。国丸と居てくれない?一緒に年越ししてあげてほしいの。私、今年はあっちに泊まろうかと思ってて。」
国丸さんは恐らく、県さんが一緒においでと言えば、ついては行くだろう。県さんは節目やけじめを軽んじる人ではないし、国丸さんは県さんのいうことを聞かない人ではない。それでも国丸さんがおじいちゃんおばあちゃんにあまり会いに行かない事はある程度、県家に定着している常識のようだった。今年の年末が、私がこちらに宿泊する、はじめての機会となる。私が泊まることはその翌日には国丸さんに伝わっていた。
県さんに、国丸さんに何故サンタさんが来ないのかを私から尋ねたところ、県さんの家庭環境によるものらしい。
「どうすればいいのかわからないのよ。私にこなかったから。クリスマスプレゼントよって、普通にあげちゃってるの」
私が県さんとふたりで話す機会はほぼない。私はこれを聞くために、国丸さんがいないところでしたいお話があるのですが、と言って時間をいただいている。日曜に伺い、県さんの書斎でお話しさせていただきながら、私はサンタさんについて以外にも、お家の細々したこと、国丸さんについて、この機会にお話しできそうなことをお伝えした。お伝えしたいことをまとめたメモには、国丸さんのことばかりが並んだ。「あの子、サンタさん、信じてるの?」県さんはあーあ、と言いたそうな顔をしながら、コーヒーに砂糖を入れて、ハートの飾りがついた小さなスプーンでかき混ぜ溶かしていた。溶かすには長過ぎる時間をかけて。彼はサンタさんを信じている。県さんにそれをお伝えした。わざわざ玄関で出迎えてくださった国丸さんとあまり言葉を交わす間もなく書斎へ通されたので、国丸さん、ご自分の話をされてるんじゃないかと心配されているかもしれない、と私の方が心配になって、そろそろ国丸さんが、と言って私からお話を切り上げた。県さんは立ち上がりがけ、あんた、過保護よお、と言ってくつくつと笑っていた。せっかく日曜に来るんだし、という県さんの提案で、お話しの後、お二人と一緒にファミレスでお昼を頂くことになっている。
お父上
国丸さんは灰色のトレーナーを着て、黒い手袋をしていた。黒いジーンズは几帳面な丈であった。小学5年生になっていくらか背の伸びた彼は、見ようによっては中学生にも見える。彼はソファにかけて本を読んでいた。私は台所で食器を片していた。週末は基本お休みをいただいているので、お休みの日の私服の彼に会うことはあまりない。国丸さんは姿勢を変えて、黒い革張りのソファの肘掛に持たれ直し、少し目線をこちらに動かした。その拍子に目があった。何のご本ですかと尋ねたら、国丸さんは曖昧な返事をし、また目線を落とし、変わらない姿勢でご本を読み続けた。午後、私は国丸さんのお父さんと初めてお会いする。国丸さんは時に自由にお父さんとお会いする。いつかの面会の折、私を話題に出したそうで、それをきっかけに一度は同行するようにと、お父さんからお声をかけていただいた。県さんは自分の子と元夫の再会に対し、感情を揺さぶるそぶりも見せず、同じように私の同行も承諾した。「国丸が言ったの?好きにしたら」。私には彼女のこの無頓着さのために国丸さんが自由であるようにも見えるし、不自由であるようにも見えた。国丸さんはお父さんにお会いするのに、いつも電車で一時間かけて山を越え、港のある都市部に出る。お父さんが帰国の際にお泊まりになられる、決まったホテルへと赴く。電車旅に同行する私に、国丸さんは国丸さんなりに饒舌であった。通学でも本日通るのと同じ駅を通ること、図書館が近くにある駅のことなど、都度教えてくださった。私が学生の時に使っていた路線でもあったので、国丸さんとは私の学生時代の話も少しだけした。私も私なりに饒舌であった。電車を降りてからの国丸さんの足取りは慣れたもので、駅の人混みが好きでないからと、私の手を掴んで早足で歩いた。この駅のホームは、地下鉄にしては白く明るすぎる照明が使われていて、そのちらつきと、騒ついた声と、人混みの壁の中、私は国丸さんの小さな背中を見ていた。目的地は、オフィス街に差しあたる直前にある、名の知れた大きなホテルであった。ホテルの玄関の黒い大理石の床を運動靴でキュッキュと鳴らしながら、豪奢なシャンデリアの見えるエントランスに国丸さんが入っていく。私は緊張する暇もなく、手は引かれたままであった。いつも、ホテルのラウンジの同じ席で待ち合わせるのだと、それだけはあらかじめ聞いていた。どんな方かは聞かないでいた。国丸さんのお父さん像というものを、特には持たないでいたかった。国丸さんにはいかなるお父さんも似合わない気がした。お父さんであろう人はこちらに気付いた途端、起立し、国丸さんに無邪気に笑いかけ、手を挙げた。特定のお父さん像は持っていなかったが、想像は裏切られた。国丸さんのお父さんは一般的な「お父さん」像から外れていた。一般的な人間像からすら外れていた。彼は一際目を惹く美しい男性であった。外見で商売しているように見えた。特別なスポーツの選手のように背が高く、よく鍛えられ、成熟した男の姿勢をしていた。少し俯いた頬に暗い灰色のロングヘアがベールのようにかかった。俳優にしては容姿が整いすぎていて、モデルにしては自立しすぎている。俳優かダンサーか、企業人であっても彼の自己表現に値段がつくことを思わせる出で立ちであった。国丸さんはお父さんにゆっくり近づいた。はじめましてと言った私に対して、国丸さんのお父さんがまず口にしたのは、「国丸の親友だと思って、君とは接したい」だった。そして名乗り、よろしく、と言って、手を差し出した。「国丸から君のことは聞いています。」と彼は言った。私は彼に対して緊張しないでいることを諦めた。きっと国丸さんのお父さんも、他人に緊張を与えないでいることを諦めているだろう。およそこの国では仕立てられないかもしれないと見てとれる、上等な珍しい布地の背広を、心配になる程無造作に鞄に重ねていた。国丸さんはその鞄とその上の背広を無頓着に退かして、お父さんと横並びになるように座った。私は机を挟んでお父さんの対面に座った。国丸さんは黙ってメニューに手を伸ばしてお手元で広げて、ご自分でウエイターを呼んで、ご自分のミックスジュースと私のコーヒーを頼んだ。国丸さんは嬉しそうであった。私は安心していた。お父さんは、国丸さんが日頃いい子であるかを私に問うたり、国丸さんが優れた子であることを私に見せようとしたりしなかった。お父さんは国丸さん個人に関心を向けていた。その姿勢に安心をした。お父さんの言葉選びは子供らしすぎるきらいがあったが、それは成長を側で見守れず、国丸さんとお父さんの時間がずれたからではない。恐らくお父さんの人間性の一片だった。国丸さんはお父さんに、外国の図鑑のような分厚い本と、英字新聞でラッピングされた箱をいただいた。珍しい昆虫の標本だという。国丸さんがミックスジュースを退けて、図鑑をめくりはじめてから、お父さんは私にいくつか質問をした。県家にハウスキーパーとして勤めた歴、出勤の頻度、私の年齢、学生時代の専攻などだった。彼はごく自然に話を膨らませて、自らの身分を、私が必要とする分明かした。気さくで、丁寧な大人であった。しばらくお話をして、ある時思い出したようにお父さんは突然財布を出した。私は彼にはこの後に用事があって、ここでお開きにするつもりなのだと思った。私のそんな様子を制すでもなく、お父さんは国丸さんに何枚かコインを見せた。「これお父さんが行ったお国のお金。どこのでしょう?正解したのだけ、あげよう」そういって、国丸さんにも、そして私にもニッコリした。お父さんは結局全部国丸さんにくださった。私にもいくつかくださった。国丸さんはあらかじめ用意してきていた革製のポーチに、頂いたコインを丁重に仕舞った。その後も晩御飯まで時間を共にした。約束も決まりもないひと時だった。私は時間の流れない国にいるような気分で、お二人と過ごした。帰る折、もう暗くなった屋外にて、「彼女、子供どころじゃないときあるから、くにのこと、よろしくね」とお父さんはおっしゃった。夕暮れの青い空を背景に、彼は黒い影のようだった。私は、至らぬところの多いこととは存じますが、と言った。その時国丸さんは私の顔をじっと見ていた。国丸さんは駅に向かう途中、父さんのことはよくわからないと言った。嫌いじゃないことも付け加えた。どう接したらいいかわからないという意味でそう言ったわけではないのだろう。国丸さんのお父さんを表現するために、「よくわからない」という言葉は適切だった。私は何も言わずに、しぐさだけで相槌を打った。しばらくして、彼は今までお父さんがくれたプレゼントについてのお話を沢山してくださった。標本の種類、図鑑の概要、お父さんと行った映画のこと。国丸さんとお父さんは名状しがたいところがよく似ていた。トンネルの続く電車の暗い窓に映る不鮮明な国丸さんと私は、兄弟みたいに見えた。親子みたいに見えなくもなかった。どちらにも見えなかった。私は彼の、なにになれば、よりよいのかはわからない。
9
国丸さんと過ごす年末年始は、大晦日から1月3日までの3泊4日で計画されていた。それとは別に、クリスマスイブの夜は、県家で一緒にお食事をいただくことになっていた。私は今年この家のハウスキーパーとして3度目のクリスマスを迎える。国丸さんが9歳の時と、10歳の時と、11歳の今年である。私にとってクリスマスは毎年ひとつの終着点だった。2年前の私が9歳だった彼にクリスマスにわくわくを覚えてほしいと意地になったのが始まりだったから。イブのご馳走を3人でいただいた後、ケーキの前に、国丸さんには県さんから立派な赤いラジコンカーと、私から黒と銀の腕時計が贈られた。国丸さんはすごく嬉しいのだけれどどちらから喜んでいいのかわからないから困惑している、という顔をしているように見える。にこにこしかけている。県さんが「ラジコンしながら走っちゃダメ、家でも外でもよ」と言ったら、国丸さんは嬉しそうに少し鼻から息を吐いた。県さんは私にも、ちゃんと見ててくださいよ、と念を押した。私はおかしくて、笑いながらええ、と返事をした。国丸さんがラジコンの箱を、腕を精一杯使って器用に抱えたまま、腕時計の箱を両手で持って、私の正面にいらして、「傷つけたくない。つけれなくてもいいですか」とおっしゃった。もちろんですと伝えた。彼はおもちゃでもペンでも、箱を捨てない。彼らしくて、私は嬉しかった。
学校が冬休みである間は、平日のお昼でも国丸さんと私の二人でお家にいることになる。国丸さんは早朝に目覚めて早速ラジコンを自室で動かしていたようだった。彼が「早朝にうるさくラジコンで遊んだから」という大変少年らしい理由で出勤前の県さんにお叱りを受けていたところ、ちょうど私の出勤で出くわした。今、彼はどことなくソワソワはしているけれど、めげた様子もなく、少し離れたところでラジコンを走り回らせている。私はリビングの床をお掃除している。リビングのお机には私が差し上げた時計がある。昨日のお食事の後、国丸さんはこの腕時計を自室にお持ちになった。だからこの時計は持ち主である国丸さんの起床と共にここに、持ち主の手で連れてきてもらって、持ち主の時間とご一緒させていただいているのだ。ラジコンを早足で追いかけて玄関先の廊下からリビングに来た彼が、腕時計に近づいて、それを両手で、持ち上げるでもなくただ包んだ。彼はこの時計を腕時計として日常的に使わないかもしれないことを送り主である私に断ったけれど、こんなに幸せな時計はこの世にないだろう。国丸さんは、床を拭く私の元に来て、しゃがみこんだ。私は脚を正座にし、彼に向き直った。彼は「サンタが来た」と言った。誰にも話すべきではないことを、相談相手を選び抜いた後で、相談する口調であった。聞くところによると、起きたら、なんとなく真横に、枕元に不慣れな質量があって、見たら、それは四角い包みで、びっくりして、まるでプレゼントみたいに、リボンがついて、ラッピングされていたものだから、とにかくドキドキして、恐る恐る開けたら、とても分厚い人体の図鑑、解剖学の本だった、彼は途切れ途切れにそう言った。県さんには内緒にしてるとも言った。本当は朝にラジコンをやりだすもっと前から、机の電気をつけて図鑑に見入っていたという。その時のままの高揚を引きずって県さんと顔合わせすると、サンタさんが来たことがバレてしまうと思って、クールダウンにラジコンで遊んでいたとのことだった。彼は床を見ている。目を見開いている。昨日よりも、本当に、心から、暴れたいくらい嬉しいのを抑えて、なんとか私に切り出したのだと見受けられた。仮に、仮にだが、県さんがサンタが我が子にプレゼントを贈ることを想定していなかったとしても、国丸さんの嬉しかったことなら、県さんも喜ぶのは間違いない。私は、国丸さんにサンタさんが来たことと、嬉しいプレゼントだったこと、きっと県さんは喜ぶと思うから、ご報告したらいいと考えます、と伝えた。私も嬉しい、ということもお伝えした。一般的な子供が、「お化けが出るかもしれないからお手洗いに同行してほしい」と大人に申し出る時のそれに近い、ただしそれの中身が喜びとか嬉しさである時の仕草で、彼は私の袖口を取った。「図鑑見せてあげる」と言った。私は彼に袖を引かれて、彼の自室の前までご一緒し、大きな図鑑を抱えた彼と共にまたリビングへ戻った。その際、腕時計も、もう一度彼の手の中に収まり、彼の部屋へと同行した。彼は、彼の作法で、彼のものをとても大事にする。彼のものになるものはものとして、例外なく幸福だ。
191014
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大晦日の夜、国丸さんは私の袖口を摘んで引っ張って、自身のお部屋まで私を誘導した。広いお家なので、廊下がすごく冷やっこく、国丸さんの広いお部屋も暖房が効きにくくて冷やっこい。雪が降るような地方ではないのだけれど、この街は山に囲まれている所為か、隣町よりも温度が一段と下がる。市で一番寒いひと区画だった。クリスマス前は天気予報を見ながら、今年は多分クリスマスに雪が降りますねとお話ししていて、ホワイトクリスマスですね、と楽しみにしていたのだけれど、結局クリスマスに雪は降らなかった。クリスマスの楽しい思い出もそこそこに、私の泊まりが始まり、国丸さんにとっての慣れないことたちが一気に国丸さんを焦らせてはいないかと、私は心配していた。国丸さんに、先にベッドに入って頂いて、一言声をおかけして、私もご用意いただいた寝室にもどるつもりでいた。そこで、国丸さんが冷たい素足を布団の下で擦り合わせているようなのに気付いた。しまったな、と思った。「湯たんぽ作りに行ってきますね、あとお靴下も持ってきましょうね」と言って立ち上がると、眠い目を擦る国丸さんが起き上がるのだった。彼はぬいぐるみのうさぎさんを左手で抱え、右手で私の手を掴んだ。手袋越しとはいえ、国丸さんが他人の手に触れたことに驚いて、私は何も言わずじっとしてしまったのだけれど、国丸さんは手を、適当に掴んだような形から、きちんと繋ぐ形へと滑らせて、先にベッドから出て、私を台所へ引っ張っていった。家の主である自覚が感じられる堂々としていて勝手な足取りだった。手を繋いだまま暗くて寒い廊下をふたりで進んだ。非常用の小さな足元の明かりに照らされた暗闇と暗闇の間の明るみに、スリッパを履いていない国丸さんの細い素足が見えた。台所だけ明かりを灯して、やかんの前、2人で湯の沸くのを待った。私は、彼を子供にするみたいに撫でてもいいものなのか、まだ迷う。けれど国丸さんが先程お部屋に、そして大事なベッドに招いてくれた親しみを、何よりも手を繋いでくださった親しみを汲んで、手を頭に添えた。国丸さんはもう、撫でても目をぎゅっと瞑ったりしなかった。何もされていないみたいにそれを受けた。お湯が煮えるのを見ながら、眠そうな国丸さんを撫でて、年が変わるのを待った。壁掛け時計を見て、「ほら、来年が今年になる」と言うと、国丸さんらしい曖昧な返事が帰ってきたので、「私が先に、あけましておめでとうを言いますね」と続けた。私達はお湯が沸いて火を止めた後も何もしないで時計を見ていた。年が明けるまで、秒針を見つめていた。秒針が12を通過して、明けましておめでとうございます。私が言うと、国丸さんは小さい、乾いた下唇を噛んで、どこか切ないような、けれど楽しそうな、むずむずしたような笑顔をして、私の手を一層強く握った。私は準備のできた湯たんぽを抱っこして、国丸さんはぬいぐるみを抱っこして、自由な手をもう一度繋いで暗い廊下を戻った。
191015
「私のお手伝いさんにおなり」