ウスルはプラットリンバイサイテス(ここはやくばとオーナー宅のある区画ですから首都を思い浮かべていただくといいですね)のやくばにいて、餌木の応接間からの帰りでした。ウスルは廊下を出口まで歩きながら、何度来ても落ち着かないな、なんていうそわそわとした心地を顔に表してなんとなくきょろきょろしました。ウスルには時に途方に暮れているわけでないのに途方に暮れているような気持ちになることがあるのですが、プラッツにいるとずっとそうして途方に暮れたままになります。ウスルはそうしながら彼を見つけました。目についたというのもありますが、ウスルは目を少し見張りました。やはりプリンシパルが近くにいる、というのはその周りを一級の舞台に変えてしまうような特別さがあるものです。彼はあるプリンシパルを見つけたのです。そのプリンシパルには間違いなく見覚えがありました。そのプリンシパルは先日観戦したファイトの主役である逆叉王子にちがいありませんでした。あるドアの白い枠に切り取られた、立ちながら何か箱を持って戦略的な構図のラインにいた細身の彼は、目線の先の彼はファイトの際のような仮面こそしていませんが逆叉王子に違いありませんでした。絵になっていました。舞台の上の人です。しかしマナーとして、声をかけたり見つめたりはしませんでした。しかし逆叉王子であろう彼はウスルを見ました。そしてウスルに近付いてきました。何か用ですかなんて言えずにウスルは「え」とだけ言いました。逆叉王子だった彼は、「君に用です」と言いましたが、彼は彼で目を逸らしました。

「これ、餌木さんから」

 彼は近くに来ました。だから白い枠のドアを通り過ぎました。瞬間、彼が空気の皮を脱いだみたいにはっきりしました。近くで見るとなんともまあ、自信のなさそうにしている男なものです。ファイトでの身体の反り、臆することなくキャストの型番という高級品を破壊する手肢の振り抜き方、プリンシパルであることを当たり前のように行使する狡さとひどさがすっぽり抜けてしまっています。作り込まれた型番には違いないので、感心しようと思えばできたのでしょうが、ウスルにはそれを台無しにできるほどの彼への期待が刷り込まれていました。だってウスルはファイトのファンですから。

「服ですって。餌木さんが君のために仕立てさせた礼服」

 彼は笑いました。ほとんど動かずにささやかに。両手でビロードの箱を差し出しました。最低限の仕草でした。ウスルは「はあ」と言いました。ウスルは目は合わせませんでした。ウスルのザグリーが、趣味が、ファイトに傾いていなければ、差し出された服を見たでしょう。しかし差し出された服を持つ手の爪は、ほんのこの前見たものだったのですから。丁度先日の白熱の中で相手のマスクを砕き抜いた時に美しく光るのを見つめてたまらず立ち上がり、ため息をついたのですから。思い出されました。一緒に観戦したザインは座っていました。ウスルを見て笑っていました。舞台上の爪の光るのを遠くから見て隣の端正なマスクを見たあの空間暗い匂いの中の音と塵を思い出さずにはいられません。ほとんど無意識に服を受け取りました。すると声がしました。

「僕、プリンシパルなんです」

「このことを知らないかもしれないくらい、君はキャストの役にも質にも興味がないプリンシパルだって、餌木さんが」

ウスルはへえ、とだけ答えました。

「僕もです。僕もそういうのに興味はない。だから君と友達になれるかもしれないからって、餌木さんからそれを預かってきたんです」

ウスルはそう と言いました。

「では……、届けましたから」

 ウスルは、自分こそ誰とも目を合わせないがこの男も目を合わせないものだと思いました。ウスルは目を逸らしかけましたが、ほとんど無意識に思い直して後ろ姿をしばらく眺めました。シャールは猫背にも姿勢が良くもみえて、悠々としているようにもふさぎ込んでいるようにも見えました。

240729