4月7日 金曜日 始業式の日 6:30

起きるのにはそう苦労をしませんでした。目覚まし時計が鳴るよりも早く目が覚めて、まだ少し寝足りないくらいです。少しぼんやりとするあたまのまま昨日の夕飯の残りとコーヒーで朝ごはんを済ませます。久々の学ランに腕を通し、携帯で適当にニュースと天気予報をチェックして、さっさと家を出ます。そわそわするからです。
今日から氷室くんと登校なのですから。彼とは4月4日に会ったばかりだというのになんだか久々な気がします。

駅への道には同じように通学する学生の姿、それにスーツの大人の姿が見られます。長い休みの終りと新しい学年の始まりを、こういうところから少しずつ実感していきます。

氷室くんは先にホームに立っています。手を振ってこちらを見ています。新鮮な光景でした。去年は彼を遠くから見ていたものですから。彼も私を見ていたと言っていました。彼にとっても同じように、新鮮な景色なのかもしれません。おはようと声をかけてくれる彼の表情は優しそうなままですが、なんとなく、緊張しているのを隠しているようにも見えなくもありません。
「今日から2年生ですよ」
1クラス替え楽しみだなぁ。新しい先生も。
2クラス替え不安だな。先生も。怖かったらどうしよう。
1一年に一度の楽しみですね
2なーるほどね……なんとかなりますよ。みんな同じく不安なんだし

「クラス替えかぁ。教室も変わるしね。うち、学年変わると1階下になるんですよ。今年は2階」「うちは逆だよ。今まで1階で、今年から2階」「階で学年分けるのありがちなんですかね」
氷室くんは緩くポケットに手をかけています。ホームにチャイムが流れ、“港里宮行”と表示された電車がホームに滑り込んできました。

氷室くんの癖でしょうか。彼は時々照れくさそうに頬をかきます。
「僕のとこ、クラス替えも新しい先生もないんですよ」
「なんで?」
「僕、美術科で。同じクラスのみんなのまま、学年があがるんだよね」
「美術の勉強してたんだ」
「意外でした?」
1全然、納得した。
2意外だったかも
「普通科と単元も違うんですって。微分積分習わないらしいんですよね」
「その代わり美術が多いってことでしょ?」
「そゆこと。ほぼ毎日授業でデッサンしてますよ」
やがて電車はトンネルに差し掛かり、しばらくすると次に「港里宮駅」に停車する旨のアナウンスが流れます。
氷室くんは顔をあげて車両内のモニターを指さします。
「僕、次で乗り換えです」
「そっか。定期の圏内だしさ、港里宮でいつでも遊べるね」
「遊びに行きましょうよ。家も近いだろうし」
「うん」
真っ黒だった窓の外が、白っぽい照明で照らされた地下駅の景色に変わります。
氷室くんは荷物を持ち直して、じゃあね、と言って手を振りました。そのまま乗客の列に混じり、降車していくのでした。
港里宮駅はこの辺りで一番大きなターミナル駅でもあり、オフィス街の最寄駅でもありますから、乗り換えや出勤によりほとんどの乗客がここで降車すつことになります。急にガラガラになった席にゆったりかけていると、やがて電車はトンネルを抜け、朝日が差し込みます。また住宅街らしい景色になっていく窓の外を眺めます。

8:35 津ばき駅

津ばき学院の最寄駅「津ばき駅」は、小さな山のふもとにある中くらいの駅で、この時間帯は津ばき学院の学生ばかりが目立ちます。
学校は、津ばき駅を降りてすぐに始まる急な長い坂を上った先にあります。しかもここから学校までのバスの使用は基本的に禁止されているのでした。
車道を挟んで左側の歩道を、同じ制服の学生が同じように歩いて、ほとんど占領してしまうのがこのあたりの朝お馴染みの光景です。この山は急な坂道のある不便な地形に関わらず高級住宅街を備えていて、山を下り出勤していくらしい車には、外車が多く混じります。徒歩で坂を降りて通勤していくサラリーマンは、車道を隔てた対岸の歩道を下っていきます。津ばき学院の学生はせめて一方だけを通行するのが暗黙の了解なのでした。この時刻に登校しているのは新2年生か新3年生だけです。今日の午後の入学式の頃にはきっと、新1年生がこの坂を初めて上って、大変な3年間になるぞと覚悟を決めるか、うんざりするのでしょう。時に春一番らしい強い風が吹いて、散り始めの桜がキラキラしながら舞っていきます。青々とした空が眩しくて、目を細めます。
1早くも日焼けが気になる日でした。
2入学式にぴったりな美しい日和です。
進級した生徒は8:35までに旧学年の教室に入り、各種書類などを受け取り、そして新学年の教室へ移動します。
いよいよ久々の校門をくぐります。これから1年に1度の段取りに進むのです。

9:00 新学年クラス

新しい教室で最初に割り当てられた席は、教室の中ほどの窓から2番目にありました。
1年生の頃によく話した友人はみんな、文系クラスに行ってしまって、新しいクラスには顔見知りすらいません。
そわそわと落ち着かない気分でいると、引き戸がガラリと開いて、沢山の書類を持った目新しい先生が入ってきました。先生は書類を教卓に下ろしてふう、と息をつきました。
「おはようございます。進級おめでとう。」
小柄で細身な先生で、高そうな白いスーツを着ています。目元はアイラインとアイシャドウで繊細なグラデーションになっています。鋭い目つきによく似合っていると感じました。書類を教卓に下ろす手にはシンプルな二色構成のネイルアートがされています。彼は意識的に指の腹を使うような丁寧な手つきで小さな缶からチョークを取り出し、黒板に 江木 シモン と書きつけました。持参のチョークには銀色のチョークホルダーで延長がされています。
「この2-2を受け持つことになりました、江木シモン(えぎ しもん)です。担当は生物ね。」
「このクラスはー……生物と化学が選択科目になってるから、生物を選択した生徒は私の授業受けることになるわね。授業でもよろしく。あと……理科研の顧問もしてます。一応だけど。部員いないから名前があるだけね。これからよろしく。他、何か質問ある人いる?」少し後ろの方が女の子の声でざわざわとした後、そのあたりから、恋人はいますか?という質問が聞こえました。
「結婚してる」
そういって江木先生は左手の甲を質問をした生徒側に向けました。薬指に細身のリングが光っています。
「お相手はー、男性ですか?女性?」とまたその女の子が質問します。
「男。ちなみにこの質問ねー……先生同士でも時々あるけど、将来、部下なんかにしたらセクハラスレスレかもよ。仲良くなってから聞きなさいよ。私はいいけど」
「シモンって本名ですか?」
今度は初めに質問した生徒と仲の良さそうだった別の女子生徒が質問しました。先生に興味津々と言った様子です。
「源氏名なわけないでしょ。教師よ」「ゲンジナってなんですか?」
「……あんたの親に聞きなさい」
教室の一画がもっと質問したそうにざわざわし始めましたが、江木先生が止めました。
「あーもう 質問タイム終わり。なんかよくしゃべるやつが多そうってことだけわかった。行事とかやりやすそうでなによりだわ。1年間それなりに仲良くね。……じゃ出席とります」

「この後の予定書いとくわね。……この後すぐ講堂で着任式、続けて始業式があります。それが終わったら大掃除ね。っても体操服持ってきてないだろうし、制服汚さない程度でいいから。その後はこの教室で、春休みの宿題提出。で、お昼食べて13:30から講堂で入学式ね。何か質問ある人?」
「仲いい先生いますか?」
「みんなとつつがなくやってます。私のことはもういいの。予定について質問いいの?」
先生は腕時計を一瞥します。
「じゃ……着任式なので、もう講堂行きます。1年の時とおんなじで、出席番号順に並んで着席ね。自分の新しい出席番号覚えた?隣の子に聞きながら順番に座ってね」
ぞろぞろ立ち始める生徒たちに思い出したように江木先生が
「式だからね。上着忘れないでよ」
と声掛けをしました。

10:30 着任式 入学式 着任式

久々の講堂に、1学年9クラス分の生徒が集まっています。新しい校長先生を含めて、7人の先生が着任するようです。着任式はあっさりと進み、そのまま2,3年生の始業式が始まりました。

11:00 HR 大清掃

大掃除ではHR教室を担当することになりました。窓拭き用の洗剤を手に、ガラスを新しいウエスで拭いて回ります。3階から2階の教室になったので、窓からの景色が新鮮です。去年と同じグラウンド側の教室ですが、もっとグラウンドが近く見えます。そこそこ真面目に掃除に取り組んでいると、普段気になどしない汚れが気になってきます。窓のサッシに何かわからないかたいこびりつきがあります。触れたくはないのですが、できれば取り除きたい大きさです。手袋か汚れてもいいウエスでもないかとキョロキョロしていると、ビニール手袋をしている男子生徒が黒板の辺りを掃除しているのを見つけました。細身で背の高い男の子で、髪は几帳面にわけられて、ある程度撫でつけてあります。鋭い印象の目つきをしていて、ビニール手袋をしているのも相まって、如何にも潔癖症持ち、という風に見えました。
「ねえ」
思い切って声をかけると、彼は愛想なく振り返ります。
「ん」
「ビニール手袋、どこにあった?私も使いたくて」
「あー。これ自前」
「掃除用に?」
「……まぁ」
1えらいね。
2勘違いしちゃった。ごめんね。
1別に。たまたま持ってただけだから
2別に。
「私は斎藤和佳です。よろしく」
「……県 国丸(あがたくにまる)」あ、1隣の席だよね。
2どっかで聞いた名前だな……
1そなんだ。よろしく
2ん?なんで。
「えっとねー……なんだっけ。思い出したら言うよ。」
せっかく席も隣同士だしと、窓の掃除はそこそこにして、県くんと一緒に床にこびりついた黒ずみをメラミンスポンジでこすりながら話をする流れになりました。
1江木先生って変わってるね。
2江木先生面白そうだね
1変わってると思う。先生ってみんな変わってない?
2気怠そうでちょうどいいわ。
体育会系の先生苦手だからあんくらいでいい。
「そうかも。」
「生物とる?」
「うん。」
「私も生物とるよ。」
「ふうん」
「……ん?」
氷室 あがたくにまる君って子。「あ!」
どこで聞いた名前か思い出し、大声をあげて県くんが驚いています。
「なにさ」
「あのさ、氷室正司くんって子知ってる?海創学園の」
県くんは眠たそうとも違う瞼の重い表情を変えて、目をくりくりさせました。やっぱりそのようです。
「知ってるけど。なん、友達?」
「ついこないだ図書館でね、氷室くんが落とした鍵拾って、追っかけて届けたんだよ」
「へぇー」
「で、友達になったんだ。お礼にってお昼奢ってくれて」
「あいつが初対面でメシ誘ったってこと?」
「そうそう」
「ふーん」
「家の最寄り駅が一緒ってわかって。そしたら県くんて子がいて、そのこもこっちの学校で、最寄り駅一緒だよって教えてくれたんだよね」
「ふうーん。なるほど。確かにそれ俺のことだと思う。まさかのだな……」
「本当だね。お昼一緒に食べようよ」「おー。いいよ」

12:00課題提出

「理科のは私に出して。他のは教科ごとにまとめて……職員室の前にもう提出用の箱出てると思うから、そこに持ってって」
江木先生の呼びかけで、教科ごとに立候補した生徒が宿題を職員室まで運ぶこととなりました。
私は担当になった国語の課題を出席番号順に並べ直します。
「あれ、県くん出さないの?」
「やってない……」
1「あら。持ってっちゃうよ」
2私もだよー
「うん。あんたこーいう雑用引き受けるタイプ?」
1たまにはね
2まあね
1ふーん?ご苦労さん。
2えらいと思う。俺絶対無理。押し付けられることはあるけど

12:30 職員室前

まあまあ重い冊子の束を抱えて職員室前の提出箱を目指します。
幸い2−2と職員室は同じ2階です。
職員室前の廊下、課題提出の箱の並んでいるところに差し掛かると、飯沼先生とばったり会うことになりました。
「あ、私のとこのですね。ありがとうね。重そう。はい。」
先生は課題提出用の段ボールを持ち上げて、私の持っている冊子の束を提出箱で受け止めてくれました。
「どもです」
「いいえ」
そういえば、先生もどこか担任を受け持つことになったかもしれません。
「先生ってどのクラスの担任ですか?」
「3-8の先生になりました」
「文系特進ですか?」
「そう。どう?●くん友達出来た?」
「出来ました。県くんって子。知ってます?」
「知ってますよ。彼も1年生の時は授業持ってたからね。友達できたようでよかったです。クラスは2のどこですか?」
「2-2になりました」
「私が授業するクラスだね。今年もよろしく」
「はい。そういや江木先生が担任なんですけど」
「ああ」
1セクシーな先生ですよね。
2かわいい先生ですよね。
3変わった先生ですよね。
1ほう。上級者ですね斎藤くん。冗談ですよ。魅力的な方ですね。
2あはは。うん。愛嬌あるかもね
3面白いしきちんとした先生ですよ。先生に恵まれたね。
「よし。じゃそろそろ、せんせはせんせのクラスに戻りますので。また授業でね」
「はい」

12:50 昼休み

職員室から戻ると、すでに教室はお昼休みらしく、がやがやとしていました。他のクラスから1年生の時の友人の席を探しに来た同級生がたくさん来ていて、同じように他のクラスへ離席している生徒も多く、空席も人数も多い、賑やかで特別な風情です。
県くんは自席でゼリー飲料片手に携帯を見ています。
おまたせ、と声を掛けると県くんは、こちらを見ると言うほどでもなく、しかし確かに私へ反応を返すように、顔をなんとなく上げました。
「机くっつけていい?」
「ん」
県くんは小さく頷いて、白い手袋をした手で、机をずるずる引き寄せました。
「お昼ご飯それだけ?」
「そ。あんま多くは食えんのよな……」
県くんの手元にあるのはゼリー飲料ひとつのみです。それに中身はあまり減っていなさそうに見えます。
「正司って、正司からお茶しよって言ってきた?」
県くんがなんとなく面白そうに聞きます。
1うん。礼儀正しくていいこだよね。
2氷室くんかっこいいよね
「ふーん……今日の帰りとか駅いるかもな」
そういえば県くんも最寄駅が一緒のご近所さんなはずです。
「県くんも朝、一緒に行こうよ」
「え、氷室って結構早く家出るよな。7時とか」
「7:20の電車で合わせてるよ」
「起きれるかな。まあ、行こかな、じゃあ」

PM 13:30 入学式

入学式の為に講堂に向かうのも県くんと一緒でした。早速、気兼ねなく話の出来そうな友達ができて、その彼と席も近いので、今日の朝いちばんよりはいくらか気が楽です。講堂に並べられたパイプ椅子の内の先程の席に着き、新1年生350名あまりを迎える式が始まりました。9クラス分の新入生の後ろに私たち在校生が座っています。去年はあそこに、私たちがいたわけです。

14:30

今日は、式さえ終われば学校は終わりです。帰りのSHRもそこそこに終わります。江木先生はあまり話の長くないタイプの先生の様です。
「おつかれ」
県くんが話しかけてくれました。
「結局早く終わったね」
「おー」
県くんは白い手袋の縫い目をいじって若干下を向いています。
「よかったら一緒に帰ろうよ」
「おう」

15:00 三堂駅

三堂駅に着くまでに、県くんと少しずついろいろな話をしました。彼はそう口数の多いタイプではないかもしれませんが、充分波長の合うタイプの友達です。最近やったゲームや、1年生の頃の話をしていると、あっという間に三堂駅に着きました。
「ほら、やっぱり」
改札を出たところに携帯を触っている氷室くんがいて、彼を指差して県くんが言います。
「あそこ」

氷室くんは声をかける前に私たちに気がついたようです。近付く私たちに彼からも歩み寄りながら、県くんを見てなんとなくにやにやしています。
「国丸、さっそく●くんと仲良しなんですね」
「まあ。お前と友達だって聞いて」
氷室くんと並ぶと県くんが少し背が低く見えましたが、恐らくそれは県くんの姿勢のせいで、大体同じ背丈のようです。
「同じクラスなんだよ。席も隣」
県くんが私を手で示します。氷室くんは「うそ、すご」とびっくりしています。
県くんは、学校で話すよりはきはきと発話していて、いくらかリラックスして見えます。
「鍵拾ってもらったんだろ。で、ナンパしたんだったっけ」
氷室くんは県くんの言葉に「えーっ」と少し大袈裟に驚いて、「人聞き悪いなぁ、恩返しですよぉ」と言いました。
「あ?下心ゼロか?」
「わあ。そんなこと言いだしたら……僕、お年頃のオトコノコですよ?完全に下心のないシーンなんてねえ……稀で普通じゃない?」
僕に下心があるかは別として、と氷室くんは付け加えました。
「●くん一緒に帰りましょうよ。どうせ家近いでしょう」
「今から買い物行くんだよね

20:00

金曜日に始業式だった為、明日からまたお休みです。テストが近いので、明日は勉強に時間を充てて対策しておくべきかも知れません。それにしても、早速友達ができたのが嬉しくて、月曜日に学校で会えるのが待ち遠しく感じます。