私が彼を指名し、彼と希望したのは喫茶店で時間を共にすることと、そのひとときの最後に、手に手を添えることである。それ以外やそれ以上を要求するつもりはない。彼に契約を申し出る際、彼は私に「久々のお客様です。」と言って、私の良く知る、心の広いような優しい笑顔をして、私を受け入れた。彼は一回目の席で、同じようなとても親密な笑顔をしながら、私に提案した。「もうひとりの、来るはずのない友人を、私たちふたりで待っていることにしましょう。」彼は自身がそのとても親密な笑顔を日常使いしていることを、使い慣れていることを、使い古していることを、微塵も隠さない。彼の、使い慣れた手札に対する自信は、威光に見えるほどに美しい。確固たるものであると同時に儚いからである。彼の、自分を買った客に対する媚びは愛らしく、また美しい。確固たるものであると同時に儚いからである。私たちは必ず決まった店の決まった席に座る。ソファに身をゆだねる彼の、くつろぎを添えた丁寧な緊張を、客である私はずっと見つめていても構わない。客であるから。私は必ずミルクセーキを頼み、彼はコーヒーを頼む。彼は私を珍しい客だとだけ、認識している。彼は私の名前を問わない。だから知らない。私は彼の名前を知っている。私が彼をどこで知ったのか、彼は問わない。知らなくていいことを知ると、知らなかった自分には二度と戻れないことを、彼はよく知っている。店には毎回、私と彼しかいない。私はここで毎回、来るはずのないもうひとりを、彼と待つ。その間に私たちは、時間つぶしの話をする。今日がいつで、昨日の私が、彼が、何をしていたかを、聞く、話す。この店に入る前、何をしていたか。でっちあげかもしれない彼の話を、私は聞く。私は知っているけれど聞く。私は彼の言葉を愛している。彼の生き様から絞り出されたものだから。目線と手付きを愛している。同じ理由で愛している。客として接すると、私が彼を愛していることが、正当な取引の上に成立する。私は彼を純粋に愛すことを買いつける。私は彼に見とれても構わない。彼は私を知らなくても、私に愛されることを受け入れる。キャストと客だからである。私たちははじめから誰も待っていない。彼が、客に対して保っている自然で淀みない自信の正体は、彼の「自分には売り物としての価値があり必要とされている」という規定である。そしてその規定により彼は、「自分には売り物として以外の価値がない」ことも同時に定義している。私は、彼の手に、手を添える時間を大事にしている。それは、会話に時間を充分使った最後、私が彼にそれをさせてくれと頼むのを皮切りに始まる。彼は私のお願いを架空の友人関係の上で受け入れて、手袋を滑らせあらわにした素手を、テーブルの、私のミルクセーキと彼のコーヒーの間に無造作に、けれど音もなく差し出す。私はそれを両手で包む。目を閉じる。泣きそうになる。私が泣きそうになると、私の内側には熱く冷たい炎が灯る。私の炎はきっとこの人を痛ませる。私は、私の熱量が彼を脅かさないぎりぎりまで、彼の手に手を添えたままでいる。その手の甲は張りつめていない。柔らかく、表面だけが乾いている。彼の手の甲に触れる私の掌がもじもじと動くと、その皮膚は何の抵抗もなくくつろいだまま、私の作用をそのまま反映してしわを作る。彼が、飽きないね、と言って笑う。無邪気で、色欲と無関係な優しい表情で。彼は美しい男である。いつまでも。キャストでなくても。客をとらなくても。この世でなくても、誰といても。私は、彼に触れる誰もが、私と同じように、「この人は私の為のひとだ」と思い込んで、愛して、彼を求めるに違いないと、心から思う。彼の歴史や思慮や努力に裏付けられた美しい力は、彼と私の間だけで交わされる特別な約束を凌駕した、普遍的な力である。だからこそ私は、彼のその力を感知できるいかなる人物をも超えて、この人を愛する。守りたいと願う。彼は私のこの感覚を感知していない。彼は彼への純粋な愛や尊敬を、自身に永遠に訪れない夢物語だと思いこんでいる。その悲しい架空の思い込みが、彼を彼たらしめている。それをも私は知っている。私は何も忘れない。薄暗い店内に斜めに差し込む白い光が、彼の顔を照らし出す。彼は目を細めて、目を伏せて、目を閉じる。彼が光を遮るために持ち上げた手が、私の手のアーチからするりと抜け出したので、私はびくりと体を震わせる。彼は少し間をおいて微笑んだ。「待ち人がいつまでも来ないから、私たちはとても長い時間、一緒に過ごしたと思いませんか?」光を遮った手を下ろして、今度は彼の掌が、私の手の甲を包む。「いっぱい話したね。君は、私のことを世界で一番知っている人になれそうですね。」私はもっと泣きそうになる。私は彼を愛している。目の前の、何も覚えていないから均一な笑顔が得意なままのラバランを。私はこの人が泣くことを知っている。この人がおびえることを知っている。彼が本当に笑うと、彼が本当に泣くと、彼が本当に照れると、偽りのように可憐であることを知っている。不完全な癖を知っている。彼を苦しめる苦手分野を知っている。彼が一生懸命隠している汚点を知っている。私は彼が、幸せになりたいと願っていることと、自身の幸せを願う自身を、哀れだと、あきらめていることを知っている。彼が知らなくても。私は今日のお茶代と彼への代金を包んだ包みを机に置く。今日も来ませんでしたね、と言って受け取る彼に、私はそうですね。という。私は笑う。私たちは誰も、待ってなどいない。

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