1

 メモは消えかけていました。見るのがあと少し遅れていたら、あのメモはチップをキリのいい数で区切るために差し込まれた間紙にしか見えなかったはずです。植物園と呼ばれる場所を思い浮かべても、ウスルには悔しいくらいにピンときませんでした。ウスルは街に出ません。出ませんし、特定のキャストとしか関わりません。まともな傘持ちすら持ちません。自身の豪邸の仕組みは誰より知っていても、お外の施設や地域については全く無知なのです。ウスルが知らないだけで、植物園と言っただけで一般に意味が通る区画があるのでしょう。もちろんもう、そこに行ってもあの人はいないでしょう。出会えないと考えた方が妥当です。消えかけた文字を見て、胸が締め付けられました。後悔なのでしょうか。忘れようとしていた癖に。忘れるべきなのです。悪いことだもの。どうせ会えなかった人なのだから。けれどメモを見つけてしまった。見なかったことにはできません。ウスルは決めました。“植物園”をキーワードに適当にどこかに赴いてみて、そこで彼を見つけられなかったら……今度こそ、今度こそ本当にこんなことは終わりにすると。今回も、故意のお出かけを儀式にするのです。施設が間違ってたとか日にちが違っていたとかが後からわかっても、もう探さない。別に、この機を逃したところで相手も同じキャストのひとりなのですから、探せば見つかるということも分かっています。それでもウスルはこれを区切りにすると決めました。ウスル自身と約束しました。ウスルはウスルに背きませんから。そしてメモとストールだけを持って、念入りにうがいをして、誰もいない家を後にしました。


バス運転手には、外に出る度に助けられます。この、黒い帽子をかぶったちいさな男の子の運転手たちはみんな、ウスル……キャストの間で言うところの「モーモー先生」には全然地の利がない、ということをよく知ってくれています。ウスルは、短く息を吸ってから、「植物園にいきたい」とだけ言いました。先日の、バスを使った博打旅のような奇跡を、もう一度信じることにしたのです。運転手はそのキーワードだけで理解しました。「モーモー先生専用のバスにしようね」と言って、運転席のボタンをいくつか押して、目的地表示を「ヒエラルキーガーデン行」にしました。いつもウスルは後方から2番目の奥の席に着きます。ウスルにはその時、あの人に会うことになる、それが本当にあり得るかもしれないと気付きました。「ヒエラルキーガーデン行」の下部に「一万堂経由」と表記されたのを見たからです。あの男の持ち場の名前だと記憶しています。会う可能性が浮上してきたらきたで、困りました。もう踏ん切りをつけこの執着をやめにするための儀式として、これを始めた節がある為です。さむいみたいに、ストールを肩にかけてぎゅっとしました。窓にもたれてため息を吐きました。曇った窓から外を見ました。景色に集中できないので目を閉じて額を窓にぐりぐり押し付けました。また、何してるんだろう自分、となりました。けれど、先日とは違って明るい昼の街を健全に走り抜けていくウスル専用のバスは、これ以上ウスルのわがままで目的地を変えたりはしないでしょう。

190921


2

到着したのかと思いました。バスが停車しましたから。ウスルはあえてうつむいて、外はずっと見ないでいました。こちらへ向かう運転手の足音がします。ウスルが寝てるとふんで、起こしにきてくれるのでしょう。ウスルは顔をあげました。寝てたと説明するみたいな半目を意図的にしました。非言語野ででも常に自分を上手にプレゼンテーションできなければ、あまりうまくは世界に受け入れてはもらえないものです。運転手が、今からこのバスは空を飛びます、と言いました。心配無用、とも言いました。要は一回り大きい飛行バスに、このバスごと乗り込んでしまって、谷の向こう側にある目的地まで向かうとのことでした。移動手段のエンターテイメント性にウスルが感心し、同時にまだ目的地に着いていないという事実に安堵している間に運転手は下車し、飛行大型バスの車庫の無線のようなものに専門的な言葉を投げかけ、切符らしいものを渡したようでした。あらためてさっきの運転手を迎えたバスは、一度だけ大きく揺れて、後はゆっくりと、より大きなバスのお腹へと飲み込まれていきました。ウスルはもう寝たふりをやめて、観光がてらバス旅行を楽しむことにしました。いわば、諦めみたいなものです。用事が用事なので緊張しているだけで、「空飛ぶバス」のお手並みに興味がないわけではありません。一万堂行き大型飛行バスとの連結作業の終了を告げるアナウンスを聞きながら、ウスルは窓の外を見回しました。現実との対面が怖くて観光をサボっていたので、目的地が崖に囲まれた陸の孤島であることに、今しがた気づきました。高すぎる建物を囲む谷底については、ふむ、確かに空を飛ぶ必要がある深さです。谷の一番下は広い平野になっているようで、無数のもふもふした生き物の群れがかたまりで動いているのが見えます。坊主頭みたいに毛足の整った、白かったり黒かったりする、羽のある生き物で、どれもちんちくりんでよく転がりそうな形をしています。そういう生き物を好みそうな友達のこととかを思い出しながら谷底のちんちくりんたちを数えている間に、このバスを先程、飛行バスが飲みこんだように、一万堂と呼ばれた豪奢な建物は、飛行バスを建物備え付けの車庫へと、ウスルたちを乗せたまま飲み込んでしまいました。運転手は、このバスが飛行バスのお腹の中にある間は特にお役目がなかった様子でした。運転手はやっと役目だというように運転席からわくわくと降りて、運転手らしい白手袋の小さな手で、同じような手袋をしたウスルの手をとりました。このバスが「一万堂行」ではなく「ヒエラルキーガーデン行」だからです。「行き先まで案内するのがバス運転手の役目」だと彼らはいいます。案内すると約束したのなら、たとえ「行き先」が「屋内」や「孤島」だとしても、役目を全うするとのことでした。

植物園とだけ聞いて運転手が検討をつけた「ヒエラルキーガーデン」は、この一万堂の地上4階にあるようです。運転手はウスルを建物1階のエレベーターホールまで引っ張っていって、慣れた手つきで得意げに、エレベーターを操作しました。全部お任せしながらウスルは突然、ここがなんなのかに気づきました。ここはあの時の空に伸びる街みたいな建物に違いありません。ここは、思い出すのに勇気のいるあの日の、初めて人生に反抗した夜に目指した、キラキラしておっきい、空に伸びる街みたいな建物です。ウスルがこれに気づくのが遅かったのは、昼に、正面から望むのと、あの日のように夜に貧民街から望むのとでは随分印象が違うから、だけではありません。ウスルはもともと、全部の出来事に一気に気を巡らせるのが苦手なのです。そして、あの日目指していたものにこうしてたどり着いた感慨というものを、ウスルはまだ感じてはいません。困ったことにウスルには実感がいつも、刺激からとても遅れてやってくるのですから。

運転手は、エレベーターで4階まで案内してくれて、そのままエレベーターから降りずにウスルに手を振りました。「よい1日を」と言われたので、ウスルはありがとう、と返事をし、エレベーターから降りました。エレベーターがしまって、ゴンドラの降下する機械音を、行かないでくれに似た情けない気持ちで聞き送ると、ウスルは完全にひとりきりになりました。確かに、見たところ、ヒエラルキーガーデンは植物園です。大きな建物内にしつらえられた、室内植物庭園のようなものだと見受けられました。今すぐ勇気の一歩を踏み出すことは簡単ではないので、まずはこの場所から見えるだけの全貌を眺めることから、対面してしまった現実への取り組みをスタートすることにしました。今いるエレベーターホールと、5歩くらい進めば侵入できそうなところにある植物園の一番違うところは、明るさです。エレベーターホールは、黒くて冷たげな石の床をした、薄暗い場所ですが、植物園側はガラス張りになっており、水色をした陽光をよく取り込んでいます。窓の外にも中にも、健康的な植物達が我こそが主役だとでもいうように活躍しているのが見えます。室内なのに、早朝の山のようにしっとりしています。涼しくて、決して明るすぎないけれど、どこにも闇のような闇はありません。つくりについては、とにかく廊下が、分岐があるでもなく、とにかく、奥にあるらしい空間まで、一本で続いています。廊下を構成する窓々には、黄緑色の蔦のような植物がふさふさとくっついています。廊下の奥にある空間は恐らく、室内庭園のようなもので、奥に噴水でもあるのでしょう。水音がします。その水音が現在一番大きな音で、しかもその音すらとても静かです。その奥に、もしくはその奥の奥に、あの男がいるかもしれません。悩む暇もなく引き返したくなる逃げ道のない作りに、幸い小さな怒りみたいなものを感じたので、その怒りを動力源にすれば、足を進められる気持ちを育てられそうです。怒りは時に、とても便利な携帯発破になりうるのです。


3

ウスルはちいさめの怒りというやつと、相性がいいのでしょうか?怒りはウスルを助け、植物園のアーチの中へとウスルの背中を押します。けれど怒りはいつもウスルを後戻りできなくもさせる、そのことをウスルは忘れていました。少年や青年という生き物は、前に進むのが結構得意なのです。植物は窓に蔓延るのと同じようにウスルの歩む床にも自由に蔓延っていますが、歩みの邪魔にならない程度に整えられていました。ウスルはそれを見ながら歩きました。高い天井へ反響する靴音も聴きながらです。陽光がうまく取り入れられているのに眩しくなくて、場所としては、悪くありません。天を見上げると、庭園内を羽のある小さな黒い生き物が飛んでいました。一瞬お空が陰ったなと思ったら、同じような形をした、けれど一層大きな飛ぶ生き物が、今度は庭園の外を飛んでいきました。この景色を何処かで見た気がしました。今日はもう、こんな悪くない場所に出かけることができた日です。もう、引き返して、ラバランには会えなくても構わない?会いたくない?会いたくないでは済みません。自らここにきているのですから。観光したし、会えなくてもいいと言えばいいのですが、そういう気持ちなふりくらいはしたほうがいいかもしれませんが、ぜったいに会ってお話しすべきです。廊下は、実際に歩いてみると入り口から眺めていたときの印象よりも長く続いていました。長いので、歩いているうちに、この先にはあの彼がいるに違いないという確信ができあがってきました。廊下が終わり、開けた庭園に差し掛かると、庭園を望む視界の左端に、植物の緑や調度品の白ではない、真っ黒と真っ青が見えました。それが彼でした。ウスルはゆっくりそれを視界のできるだけ真ん中に近いところに持ってきました。ウスルでなければ目が合っていたでしょうが、ウスルは巧妙に目を合わせずにいました。あっけないほどただ、彼はいたので、いたらいたで、観測に心が追いつきません。脳みそが後ろの方にあるみたいに、ラバランの存在が入ってきません。彼は白いソファにかけていました。足をリラックスさせていました。黒い、細身の詰襟のスーツを着ていて、眼が覚めるように鮮やかな青いファーのストールをまとっています。知的な印象にそぐわない砕けた姿勢で、テーブルに肘ついています。そんな姿勢では肘が汚れやしないかと心配になるほど、きちんとしたかっこうです。ラバランは嬉しそうに瞬きして、年頃の子みたいに笑って、目を伏せました。
「足音で、君だってわかりました」
彼がいる予感はあったわけです。いたらいたでなんでいるんだ、と思っているわけです。「いるとわかっている」も今考えてみればおかしくて、「なんでいるんだろう」もおかしい考えです。本質的にはウスル自身が一番、「なんでいるんだろう」なのですから。途端、こんな遠い知らないところに自分がいるおかしさが迫ってきて心細くなりました。正常な心細さを取り戻しているに過ぎません。はじめての夜のひとりぼっちの裏路地の不安に似ています。なんだかウスルがひとりぼっちで遠くに出かけるときには、いちいちこの人がついて回ってきているようですがそうではなくて、居合わせているだけです。そのくらいわかっているのです。ラバランは、ウスルに対面のソファにかけるよう手振りで促しました。ものを知っていて、影響力のある生き物がする手振りに見えました。ラバランの纏う空気の質じゃなく規模で言えば、ウスルを十分守ってくれそうに見えます。質の方に言及するなら、ウスルにひどいことをしそうです。なのであまり見ないようにしました。“守ってくれそう”にとりこまれたら、きっといざという時必要な拒否ができません。いつまでもこんなおとなしい心でいないで、さっさと“守ってくれなさそう”な人に対するふるまいを取り戻すべきです。自らが決して無防備でないことを急いで証明するためにウスルは知りうる限りの方法で凛としておすわりしました。そしてラバランへ申し立てをしました。封筒のメモの件です。見逃しそうになった件です。あまりまとめないまま言葉を発しました。申し立てはとぎれとぎれでした。そして口を動かすたびにウスルは、自身に対して首をかしげたくなりました。言えば言うほど自分の主張がおかしいことが判明していったからです。主張は「ここに来れなかったらどうしてくれる」に帰結するのでしょうが、「ここに来る」のはラバランのお好みであってウスルの望むところではないはずです。ここに来たがっていたことになってしまいかけているウスルの主張に、ウスル自身が首を傾げそうになっているさまを、ラバランは肘をついた両手でお顔を支えながら楽しそうに見つめています。馬鹿にはしていませんが、楽しんでいます。
「ここに、君がきても、こなくても、」
「私は君を、お迎えにいきます。」
ラバランは楽しそうにしています。そう言い終え、そのままウスルを見つめました。しかししばらくすると、顔をほんの一瞬だけ鋭くさせて、ウスルの後ろをちらっと見ました。めざとくそれを察知して、ウスルもウスルの後ろを見ました。おそらくラバランのではない子供型の傘持ちがふたり、たどたどしい、とはいえ訓練をされたとわかる足取りでラバランへお肉の料理を運んでくるようでした。ラバランは前のめり気味なくだけた姿勢をやめました。息を吐いて、しゃんとして、黒いスーツのお膝に白い布ナプキンをのせました。指先をピンとさせた手のひらでなでつけて、布ナプキンもピンとさせました。改めてウスル用ににっこりとし直して、すねてるの?と尋ねました。

「二度と会えなかったかもしれないから?」

傘持ちは音を立てずにお肉をテーブルに置いて、お辞儀をして、ぴったり来た道を歩いて戻っていきました。ラバランは傘持ちへ一瞥もくれてやりませんでした。「“君が欲しいって言ったくせに”?」ウスルは何も答えず、真っ赤な断面に均等にサシの入った健康的なお肉料理を努めて見ました。黒い四角い皿に盛り付けられていて、青っぽい紫色の花びらと、香り高い緑の細身の植物があしらわれています。このお肉が来てくれて助かりました。視線を落とす先ができましたから。
「私は今からお食事なのだけれど」
「その間、よろしければ、ここにいてくださいませんか」
ウスルは頷きも否定もせずじっとしていましたが、こうしたままだとどうでしょう、まだいるつもりだと伝わるかわからなかったので、一応頷きました。関係を断つとしても改めて始めるとしても、直接きちんと話すべきではあります。ラバランはウスルが今日初めて見えた時と同じように、嬉しそうに瞬きをし、ありがとう、と言いました。 「今日も、君にはいくらか渡します。」
「だから、今日も私は、君のお客さん」

190926


4

「お食事はしないんでしたね」とのラバランのお声掛けにうなずくとほとんど同時に、先ほどの傘持ちの手で、透明なグラスに入ったお水がウスルへ運ばれました。食事をしないと教えたことはありませんが、それについては考える暇はありません。ラバランが手元の赤い酒のグラスを持ち上げてした仕草が、二人の時間と、お食事への祝福を表していると幸い理解できたので、ウスルもできるだけラバランの方向を見て恐る恐るグラスの細い脚を持って少しだけ持ち上げて傾けるだけしてみました。ラバランは花がほころぶみたいに笑いました。ラバランがグラスに口をつけたので、ウスルも自分の口にグラスをつけました。飲んだフリだけです。ラバランは表情にほころびの名残を残したまま、お肉を見つめなおして手を合わせ、頭を動かさずに小さくいただきますと言いました。それはとても従順な生き物のしぐさに見えました。そしてナイフとフォークを手にし、肉を切りはじめました。それはいくらか乱暴な生き物のしぐさに見えました。粗雑ではありませんが、いただきますの従順さに比べれば格段に。ウスルははじめての場所で、はじめての経験の中で、できるだけ冷静を自らに強いて、観察に徹しました。ラバランに比べて、していいことも、やるべきことも少なかったので、なるべく動かないことにしました。出された水も飲まなければ、飲む仕草もしないことにしました。動きからほころびが出るのが怖かったのです。ラバランの食べる肉は大層うまそうに見えました。ウスルは全くと言っていいほど食事をしないので、その「うまそう」が正しく「うまそう」なのかはわかりかねますが、肉を食らうラバランは、幸せそうに見えました。ラバランの持つ深く青い口内の闇と、お肉の持つ真っ赤な、艶々と豊かな断面はお互いの特徴を組み合わせて美しいものになっていました。「幸せそう」と「艶々して豊か」、合わせれば「うまそう」に近いはずです。赤い肉を青い口内に運んで、含み、咀嚼し嚥下する。それをもう一度して、グラスを持ち上げて、口付けて、傾ける。植物のいい香りだけを濃縮したみたいな赤黒い液体を飲み込むために喉を鳴らす。黒い服を着ていて、肌が白くて、青い毛皮をまとっている。他に見るものもないので、ウスルは光景に没入しました。噛む、舐める、それらは、食事さえしなければ、乱暴するときしかしません。乱暴だから「うまそう」なのでしょう。「うまそう」なものには一定の乱暴を示すと、ちょうどお似合いなようなので、食事をする者の礼儀のひとつなのかもしれません。ラバランはお食事の手を止めました。ラバランには一対のナイフとフォークと、もう一本フォークが用意されていて、ラバランはそのフォークを手に取りました。先端から眺めました。少しの間、そうしていました。こっちに意識が向いているのが分かります。だから嫌な予感がしましたが、かといってウスルには何もできません。観察役ですから。そしてラバランはウスルを見て、銀色のそれを、ウスルに、しかしウスルからなるべく離して、差し出しました。ウスルは怖くて動けません。ラバランは笑いもしていませんし、それ以外の表情もしていません。
「君にあーんがしてみたい」
ラバランのお顔はまた花が開くように、悪いことをするとき笑顔になって、追加でお渡しするから、とも言いました。

191013


5

ラバランはとても優しい声で「はい、あーん」と言いました。そういうしぐさもしました。いきものには反射がありますが、反射と関係なく、ウスルは口を開きました。自分を守るためでした。恐ろしいから、ならいました。ウスルには拒否も受容もありません。そのままじっとしていると、光を鋭く照り返して、とんがっていて、恐ろしいその印象のままの冷たさが、舌に触れました。ラバランにはいかなる動きにも残酷なくらい時間をかける特性があるようでした。
「お口、開けておいて」
ぎゅっと目閉じると、即座に目を閉じないよう指示され遮られ、自身の口に一部入り込んでいるフォークの柄の照り返しを見るか、下手したらラバランを見るしかありません。なので彼の後ろを見ます。ぼやけた植物園を見ます。ラバランはずっとずるい顔しています。ウスルは鼻で息をして、それがいかんせんうまくいかず肩が上下するので、不適切な興奮に支配されているとでもラバランを錯覚させまいかを恐れました。フォークの下側を舐めるよう促す指示を受けて、ウスルは恐る恐る舌を持ち上げました。恐ろしいから。この男の得体が知れないから。いぶかしいから。フォークがとんがっているから。総合して、従う必然性があるから。震えそうでした。ラバランはウスルを褒めました。ウスルにはその意図がわかりませんでした。おとなしいから褒められたのかと想定しましたが、ラバランは満足げな笑みで、「やけに上手ですね」と言いました。
「私の望みが、わかるみたい。」
ラバランのうっとりするのがわかります。ラバランは目を細めて首をしとやかに傾けました。
「わからないのが、正しいのにね。きみにとって。」
ウスルの口から、いたわるみたいにフォークを引き抜いて、ラバランはそのまま、ウスルの舐めたフォークを左手に持ち、先ほどまでのナイフを右手に持ち、肉食べ始めました。傘持ちがまたやってきて、初めに使われていたフォークを下げました。この一連の流れが、ラバランの信じる何か教えみたいなものにまつわる、日常に根ざした祈りの動作だと言われれば納得するくらいになめらかに、これらは行われました。この男にまつわる何が常識で何が非常識かは、ウスルは考えないことにしました。如何なることも考えないことにしました。頭の働かない局面というのはあるものです。いいえ、人なんてものは、いつでも、大して頭なんか使っちゃいないのです。使わない方が幸せなのです。
「ウスルくんてさ、」「ご自分の精液を、たべるでしょう?」
ラバランは問いました。いつの間にかその言葉がそこに放たれていました。ウスルは遅れをとって驚いて、しかしできるだけ動かず、声も出さないことにやっとのことで成功しましたが、それでは何も解決しません。違いましたか、とラバランは言いました。なんともカジュアルな声かけでした。

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6

確かに精液を食べる癖はあります。しかし深い意味はない、褒められたものでない、マスターベーションにともなう個人的な風習にすぎません。なぜ知っているのかは、考えない方がよさそうでした。ラバランは続けて、なぜ食べるのかを問いました。返答としてふさわしい「なぜか」の考案には、長い沈黙を要しました。ラバランはいつしか肉に手をつけるのを一旦やめて、ウスルを見たまま、「なぜか」の返答を待つ姿勢を整えていました。辛抱強く返答を待っているつもりでいるのをさとり、ウスルはなんとか、力になるだろうから。と答えることに決めて、小さくそれを発話しました。ラバランは「お力になるから」と、繰り返しました。先ほどウスルが乾杯に応えた時よりくらい満足そうに、ほころんで。
「本当は理由なんてない、わかっています」
ラバランは言いました。したら、いくぶんか、誠実そうな顔になおりました。意地悪な質問をしたことについて、短く謝罪しました。それでもその誠実そうな顔ですら、笑顔の範疇にあります。ラバランは再び皿に目線を落としました。最後の一切れがあります。ラバランはじっと、皿を見ます。皿の縁を見ているように見えます。肉を見ている目には見えません。
「きっと私の食事にも、理由はない。君の個人的な食事と同じくらい」
「けれどいつのまにか、美味しいから、食べていると成っていた」
「美味しいってどこからくるのかな」
問うた後、ラバランは、最後の一切れを食べました。先ほどまでとは意味の異なる咀嚼に見えました。美味しそう、ではなく、確かめるみたいでした。しばらくして、それは大事に飲み込まれました。ラバランの喉を通りました。ラバランの体の中におちていったはずです。
「美味しいってどこからくるのか、」
「ものを食べないから、わからない?」
ウスルはうなずきました。「私は、とてもよくものを食べるのに、長くたくさんものを食べてきたのにわからない。」とラバランは言いました。丁寧な仕草で口を拭い、食事を終えたことを示しました。いただきますと同等の従順さがごちそうさまでしたという言葉に添えられました。


いずれ、皿は下げられました。その際、傘持ちが机上の赤い蝋燭に火をつけて、二人の間には新しい、甘い香りが立ちのぼるのでした。暗い夢の中みたく、子供には早いにちがいない特別な空間になったので、何か特別なことを告げられることをウスルは予感しました。食事の全ては終わりました。窓から見える空はすでに青く、暗く、植物園の不思議な形の葉っぱ達が真っ黒い影に見える頃でした。ラバランは、これからもずっと、こうして会いませんかと言いました。大人のわりに恥ずかしそうに、恥ずかしそうなわりにはっきりと。ウスルはその言葉を待っていなくもなかったこと、自身でまだ折り合いをつけられていませんから、うんともすんとも、言いません。うんともすんとも言わないことをラバランははじめから知っていたので、返事を待つこともしません。
「君は、あの時も今日も、同じ何かを私に、求めているね。」
ラバランが、窓の外の空の深い青色と、蝋燭の火の揺れる赤色に挟まれて、輪郭から内に向けて、浮かび上がって見えます。
「私が君を助けられるかもしれないなら、まだ、君は私と、一緒にいてもいいはずです。」
頼っていてくれてるんでしょう?と言われたので、ウスルは素直にうなずきました。今度、水族館でデートしましょう。と言われたのには、ウスルはうなずきませんでした。ラバランは手帳を取り出して、ウスルに向けて、暦の一節をペンで指しました。「ねえ、この日」と言って、示された一節の夜に丸印を付けました。ウスルは丸印よりも暦全体を見ました。暦は真っ白でした。今しがたつけられた丸印だけがそこに孤立していました。一つの予定もない暦が、いやに機能不全なありさまに見えました。手帳の上に、ラバランは白い封筒を2つ差し出しました。今日の分と、水族館デートの前払いだと言葉を添えて。こちらは、デートの誘いにのるなら、受け取ってください。そう言って、ラバランは人差し指で2つ目の封筒をつつき、その人差し指だけでするするとウスルに近づけました。ウスルはどちらも受取りました。ラバランはウスルを見ました。笑いました。ぎこちなく。安心したみたいな、けれどどこか困っているようにも見える表情で、ウスルくん、と言いました。
「君は、私の人生を素晴らしくするでしょう。」
ラバランは手帳を下げました。それを手元で見て、手元で何かを書きつけて、手帳を閉じたら、ラバランは目を瞑りました。少しの間じっとしていました。
「私も、君にね、……まだ慣れていないんです。緊張してるの。……一緒にいて ならんで歩いてくれるなんてことがあったら……胸がいっぱいになるくらい。」

191201
200113


7

お見送りするためにラバランは、バスのはとばに向かうウスルについて歩きました。いよいよバスを目の前にして、ウスルがバスに体を向けようとしたら、バスを待つスペースと昇降口を隔てるしきりにもたれて、ラバランがお友達にするみたいに(ラバランがお友達にそうするのかはわかりませんが) 手を振るのでした。ウスルも手を振りそうになりましたが、やめました。それと、そんなふうにもたれては、お服が汚れますよ、と言いたくなりもしましたが、それもやめました。
「じゃあ、水族館で。」
ラバランが言いました。実のところ、ウスルには心残りがありました。こんなところに1人で来るバイタリティがあるというのに、ラバランに対してなにかとしようとしてはやめてしまうことの多いこと。ウスルはラバランに、事のさなかだと何も言えません。目も合わせないくらいですから。そうしておわかれギリギリになってやっと、煮詰まった不完全が淵から、へたくそな言葉になってこぼれだすのです。それでも何もやりとりしないよりはマシに違いありませんから、ウスルはバスに向けていた体を、ラバランに向けなおしました。
「……おれは、わからないから……、わからないけど、ここにきた。わからないから……、あの、あんたが、全部、決めてください。」
そして、おじきをしました。逃げるみたいにバスに乗り込みましたから、ラバランの反応は知りません。赤いビロードのふかふかしたシートに深く腰掛けて、バスの中から窓の外の世界を見ると、バスより低いところにいるラバランが、なんだか水槽の中にいる小さな生き物みたいに見えました。ラバランは水槽の中でもウスルに手を振っていました。嬉しそうでした。ウスルはまた手を上げかけて、ためらい、ためらいを故意にやめて、手を上げて、窓にさりげなく手をつくことをしました。ウスルが今できる一番豪華な「よろしく」がそれでした。結局、こういった約束をするためにここにきたのか?ウスルにはまだ、わからないのですが結果、こういった約束をすることになったことは変えられません。走り出したバスの中でウスルは、次会う時の準備を頭の中ではじめました。次はウスルが、人生かけて守っているものを充分表明しなくてはならないでしょう。何故ならそれ以外のギリギリまで、うまいこと、寸止めでぐちゃぐちゃにしてもらう無茶な技巧を望んでいるといっても過言ではないのですから。相手の求めるものも、確かめなければなりません。両者の求めるものに折り合いがつかなければ?終わりにすればいいのです。守るべきものに乗り上げられたら?逃げればいいのです。信頼していたザインからすらウスルは全力で逃げられたのですから。深呼吸をしました。赤の他人なんかがそうしてきたら、間違いなく恨める。離れられる。当たり前に。ウスルはウスルを信じました。危険をもう一度シミュレーションしました。バスの中ではひとりきりでしたが、冷酷な顔を、わざとしました。

200114