ブロキマナクに一万堂ありとは有名な言葉ですが、一万堂にナリエありというのもまた有名な言葉です。だってナリエはプリンシパル。それにプリンシパルの中でも一等特別。ナリエのお部屋の入り口なんて、金ピカのイグイグの像付きなのですよ。ナリエの立派な傘持ちをご存知ですか。壁のような画一的な犬が5匹、本日もナリエに随行します。ナリエは酩酊に慣れていて、とても気持ちのいい遊び方のするプリンシパルです。ゲストで遊ぶのです。ゲストがおもちゃ。ブロキマナクでこんなこと、なかなかありません。壊れたい時、認識の檻から放たれたい時は、彼のお部屋からどん底に落ち込むといいとされています。それは初めはきっとキャストがゲストに吹き込んだ例え話のひとつだったのかもしれません。おすすめとは言ったものの、万人に勧められるわけではありませんもの。だって、滅ぶのですよ。ゲストは皆、ナリエに滅ぼされたいのであって、ただ滅びたいわけではないでしょう?ナリエには何もかもが費やされます。ナリエの関わる演目は全てナリエが主役で、一万堂中のキャストがなんの疑いも持たずにシーズンに数度ある「ナリエの日」を歓迎します(あなたの知るお祭りにも人格の名前を冠したものはあるのでしょう)。ナリエは一万堂のトップ。君臨していると表現してやっとぴったり。いつも舞台の上にいますと、舞台からお客様はよく見えません。特別な傘持ちがいては尚更です。ナリエは「全てを認識してくださる」なんて甘いキャストであるわけがないのです。記念日に特別な踊り子がつくくらいのキャストですから。
そんなナリエですから、なんとプリンシパルのおとこが世話しにきます。そのおとこは言います。
「ナリエさんが一等特別であられるから、一万堂も一等特別に化けた。おかげさまで私のような婢女ですら、プリンシパルに足るのです」
そのおとこは一万堂を度々“ナリエさんのおしろ”と呼び、ナリエを“こどものおうさま”と呼びました。ナリエは一万堂の全部は知りません。「君臨」をしていると、あまり知るというのは必要ないからです。ナリエはナリエの手の届く範囲で全てを満たすことができます。汚いものはあまりみたことがありませんし、発生しても長くは触れません。召使いが退けてしまうし、傘持ちが退けてしまいます。するとナリエの前には整頓された机がいつも用意されているという事になります。どんなに豪快な手法でケーキを食べ散らかしてもね。
そんなのっておかしいのでしょうか。おかしくないことなんてないのでしょうか。ナリエはふと哲学することが増えました。哲学をするというのは、まるで今ナリエの上下右左などそこにある一切合切を、とても想像の力を尽くして、まるで、あえて、ないかもしれないとしてみて、頭の中だけにある遊戯を追いかけることです。そんなふうに頭を使っているとあまりゲストを壊す気分にもなりませんから、ナリエはナリエの部屋でじっとしています。傘持ちを見ていると、最近増えた犬も昔からいる犬と同じ首輪をしています。ナリエは立ち上がりました。傘持ちのひとつを無作為に呼びつけて、しゃがませて、首輪を外してみました。うろたえる傘持ちを眺めました。うろたえるだけ。震える巨体があるだけ。何かをしようとしたらしい仕草を不自然に中断するだけ。しつけの成果か吠えもしない。傘持ちはどこにも行きません。首輪を外した瞬間自我が芽生えるなんてこともありません。犬はどこにもいかない。「どこにも行かないのか」そう小さく声に出して、ナリエは犬にもっと近づいてみました。犬は犬を見上げるナリエのまっすぐな眼差しを一拍見つめて、うろたえて、ナリエの白い頬を見つめて、またうろたえて、どこにも行きませんでした。ナリエの犬はどこにも行かない。だったらどうして首輪が発生しているのでしょう。犬は首を触ります。その内諦めて、うろたえるのを辞めました。結局どこにも行かないで、ナリエのタバコを取り出す仕草に合わせてライターを差し出す仕草をしました。その仕草は多少震えていて、残念なことにナリエのインカムをかすめたのですが、その犬はこの度たまたま処分されずに済みました。ナリエが考え事をしていてよかったですね。
ナリエにはインカムというものがついています。これは一万堂に発生した小道具です。ナリエが収まる役にとってインカムは当たり前の道具です。だって、ないとかっこうがつかないではないですか(扇子無しでキトリを踊るようなものです)。それにどんなゲストをどうする手筈なのかを知っておかなくてはいけませんし、そんな話を婢女おとこがいちいち直接来てするなんてのは嫌ですもの。
ナリエの豪華な部屋には4つ出入り口があって、そのそれぞれにイグイグの金ピカ像があります。ナリエはそれをあまりまともに見たことがありません。ナリエは犬に扉を開けさせて部屋を出ました。つまらない贈り物のイグイグ像を見てみようと思い至ったから。桃色や青色や黒の手の込んだ模様をしたツルツル光る床を靴で鳴らして、犬は連れずにひとりぼっちで観察してみました。ひとつの方角には元気で獰猛な仕草のイグイグ。別の方角には棺から起きたばかりの小さいイグイグ。また別の方角に遊び呆けるイグイグ。また別の方角には海に沈もうとするイグイグがあつらえられていました。どうして気付かなかったのか。ナリエは笑いました。ナリエはその逸話を知っていました。どこかで聞いたことがあったから。ナリエは自分を笑ったのです。のんきすぎたから。ナリエは婢女おとこを笑ったのです。あんななりで随分と高圧的なことをするから。ナリエは特別ですが、特別だと定義づけられるなんてしてはなりません。ゲストの故郷の特別な王様になぞらえられるなんてまっぴらごめん。玉座を破る日が来るのなら、それは突然でなくてはいけませんね。
天辺にいては見れないものが多すぎます。ナリエは下界に降りました。一万堂の中を最低限の犬だけ連れてうろうろするようになりました。ナリエをシーズンに一度の憧れの王様だと思っていた子供たちはナリエの来訪を歓迎しました。友達として。ナリエはプリンシパルですから、コールドのようなキャストの発するシグナルを受け取ることが難しいのです。しばらくは慣れない雑踏を進むことになりましたが、姿がまともに見えなくたって、挨拶も聞こえる。手を振っているのもわかる。何よりもナリエはそれに一つも返事をしませんから、見えていなくても関係ありません。そんな風にしていると案の定、すぐにプリンシパルの婢女おとこがやってきて、ナリエを見つけて息をのむといった表情をします。ナリエはそれをこどもたち越しに見つめて静かに口の形だけで笑います。おとこは直ぐには近付いてきません。こどもが多すぎるのです。こどもの雑踏の中、あまりに目立つ大人のプリンシパルは、こどもに道を譲られて、ナリエの元に充分近付きました。するといつものように膝をつき、じっとしておとこを迎えたナリエを覗き込みます。
するとナリエはそっぽを向きました。ナリエはインカムをゆっくりはずします。楽しそうに目を細めて振りかぶって、ナリエはインカムを投げ捨てます。ディラーラの力強い投擲で吹き抜けに飛んでいく小さな小道具。いずれゲームセンターになる工事現場のある廊下から、階下のアトリウム、ヒエラルキーランドへ落ちる小さな舞台道具。ヒエラルキーランドの偽りの海にインカムが着地した水っぽい音が婢女おとこの耳に届いた時、ナリエはもうおとこの方を向いていました。ナリエはおとこを指差します。それを大勢のこども達が見つめます。吹き抜けに斜めに差し込む白い陽光は階下のアトリウムだけでなく、その上階でこども達に囲まれたプリンシパルとプリンシパルを照らします。
「お前、名前があるんだろう」
ナリエはおとこに言いました。おとこは頷かないで、ゆっくり、口を開きます。
「私はこどもの皆様の召使いにございます。
名乗るほどのものではないのですが、尋ねてくださいましたから」
ナリエは興味がなさそうな顔をするのではなく、おとこを睨んだままでいます。
「私はラバランと申します。演目によっては、ラバルマンと呼ばれます」
婢女おとこのラバランは、ナリエに何か、たくさん、言い添えたいことがあるといった表情をしています。少し下を向いています。
「行ってしまわれるのですね」
その顔つきのまま、さみしそうな声色で、それだけを言い落としました。
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