レクトはすでにブロキマナクにひとりです。レクトは、家に戻って玄関のドアを開けたそのわずかな隙間から、音とも気配とも取れない、おかしな感じに気が付きました。レクトはそれでもドアを開けました。頭が働かなくなって久しいからです。見覚えのない靴がすでに見えていました。ビロードで仕立てられたヒールの高い靴で、廊下に脱ぎ捨てられています。レクトは家の中を見やりました。まじまじ見ることはしませんが、眺めるようにして見ました。中に恐らくいる何かが、レクトにもたらすかもしれない災厄を受け入れたりさばいたりするほどの気力がなかったからです。玄関含めて家の中の全てが薄暗く、青みがかっています。知らない靴のビジューがわずかな光を照り返してきらきらするのを眺めます。細部が夢の中みたいに浮かび上がる。レクトは元気がないので、元気がないからこそ無意識を使用して、要はぼーっとして、その家の中に入ることができたのです。レクトはずっとひとりでした。ひとりでいることが長すぎたので、しばしば無意識が優位に働くようになっていました。意識を使用して仕える先など、もうほとんどないからです。家の中にきちんと入ってしまえば、聴き慣れない音に気が付くことができました。夢の中にゆっくり落ち潜っていくかのような心地で歩みを進めます。ドアを開けて居間を見ます。人の後ろ姿がありました。角のある誰かです。思い当たるシルエットではありました。ですがノーキスの、かつてのノーキスのありふれたシルエットにも似ています。ひとりになる前の、それもシャールがレクトをそこまで使い切っていない頃の頭ならここで誰ですとすぐに問うていたでしょう。ともかくレクトの信じる範囲では、レクトはブロキマナクにもはやひとりきりなはずなのに。だれかさんにたどり着きます。そのほど近いところでディスプレイが光っています。彼は何も音を発しませんが、画面の向こうの音がぼそぼそした心地で聞こえています。彼は映画を見ています。彼はレクトにに背を向けていて、座り方がしとやかです。細身の背中の軸をほんの少しだけカーブさせて、アシンメトリーの座り方をしています。行儀が良いわけではありませんが、悪いわけでもありません。彼はレクトの方に振り向きません。レクトが声をかけないからかもしれません。レクトは立ったまま、しばらくそうしていました。画面には、シャールが持っていた鮫の映画が写っていて、爆発音と金切声が小さく、しかし響きます。レクトは久々に耳が震えた気がしました。心も。相変わらず夢の中のように、デザインされた視界にて。目に入る大半が暗くて青くて、聴き慣れない音に考えがうまいこと妨害されていて、いないはずの人がいます。とても洗脳に適したシチュエーションです。音のしないキーン、ブーンという音の中に、感じられるすべてがあります。幻覚くらい現れても、何らおかしくありません。画面の光は部屋の物品を照らして浮かび上がらせています。映画のパッケージが照らされています。ソーダの瓶が2、3、転がって光っています。何かを効果的に惑わすなら、暗くて青い世界はとても適しているはずです。頭を揺らす音があるのも適しているはずです。いないはずの人がいるのも適しているはずです。ディスプレイの中では青い海が広がっていて、海のオーナーなのではないかというくらい大きな太った鮫が映ったり、隠れたりしています(鮫を知っていますか?レクトは鮫というものを伝説として知っていますよ)。海と鮫の光に照らされて、彼が振り向くのがやけにゆっくりに見えました。ぱらぱらまんがのように、まばたきが何度も差し込まれたみたいに、断続的に見えて、浮かび上がる横顔に、こちらを向いた顔が重なりました。
「待ちくたびれたわ」
スローモーションで薄い唇が動いて言いました。知った顔です。アーサー。アーサーはプリンシパルです。深く関わったキャストではありません。しかし関わらなかった人物でもありません。キャストの管理をしていたレクトがプリンシパルを知らないなんてことはありません。アーサーは細い指でソーダの瓶を持っていて、レクトはその異様に細く見える手首を目で追いました。アーサーの髪は濡れています。バスタオルをまとっていたらしいのですが、はだけて、今はあらわな格好をしています。レクトにはその姿がやけに不健康そうに見えました。レクトの知るアーサーと比べて、極めて。

「何もないのね」「この家」

そして待ち疲れたわ、といいました。アーサーじゃないみたいな口調ですが、レクトにはそれがとてもよく似合っているように聞こえました。アーサーはもう映画を見ていません。画面は見せ場を映しています。きっと最もグロテスクで、ショッキングで、ここで釘付けにしなくてどこで釘付けにするのかというシーンです。アーサーはそれを背負っています。

「もうちょっとセンスのいい娯楽のひとつでも置いておくべきじゃない」「ひとりだとしても」「お酒の一本もないなんて」

アーサーは濡れています。髪がほとんど拭っていないらしく、水が滴っています。風呂を使ったのかもしれません。
レクトは不自然な気持ち、はたまた自然ともいうべき気持ちを取り返しかけていました。体調を崩しますよと言いたい気持ちです。レクトは口を開きません。切なげにも見える表情をするだけです。

「必要なものを取りに来たの」

早く、と言って彼は手招きをしました。レクトを見て。レクトにはそのおぼろげなのを、幻覚みたいだとして、幻覚だろうと推測しました。

約束を約定を、思い出して、困惑しているのです。決まりを、規則を。手招きを、幻影としなければ、下手をしたら存在意義を根こそぎ失います。ひとりでないとおかしいのです。締めくくりをするのだから。レクトは手招きにあらがえませんでした。そもそも生来の質として指示や命令を乞うていたところもあります。歩み寄ります。レクトは見下げます。アーサーはほとんど動かずに、見上げます。だから、レクトはしゃがみます。何か話そうとして唇を振るわせ、何も言わないことにします。レクトにはレクトがなぜアーサーの幻覚を見ることにしたのかわかりません。それはまるで、せっかくならほかのキャストがいいみたいな思いの動きです。アーサーに失礼だと感じて、やめました。途端、アーサーはレクトの腕を引き、太ももに体重をかけ、対して抵抗しないレクトの上に乗りました。痩せた男にしては力が強すぎます。痩せた男とはいえ重い。幻覚でないみたいに。幻覚らしくもあるほどに。大した抵抗をしていないレクトは既に押し倒されています。アーサーはレクトの首に両手で縋り付きます。強く、爪を立てます。レクトは相応の反応をします。痛みを伴う理不尽。しかしやはりという気もして、目を強く瞑りました。外傷でない部分が熱くつらく悲しくなったからです。すぐさま顔面に熱い息が触れたのを感じてレクトはもっと顔をしかめますが何も言わないように努力をします。なぜ?とても協力的です。なぜ?アーサーがレクトの瞑った右目の瞼に舌をぐりぐり這わせてこじ開け舐めます。眼球を圧迫しますが眼球と入れ物をはがそうとしているみたいです。弾力を確かめているみたいです。幻覚じゃないかもしれません。痛い。寒気のする痛みにもっと顔をゆがませました。それでも目の前の男を気遣ってもいました。アーサーはレクトの顔に顔を寄せています。正確にはレクトの右目に口元を寄せています。レクトは自身への関心をアーサーの何もかもから感じられませんでした。とても近いのに、ほおっておかれて、無視されているみたいです。よく知ってる。シャールの秘書みたいな何かに転職してから毎日感じたさびしさです。アーサーはまだ彼の目的か何かに執心していますが、レクトの前髪を摘んで避ける手つきは存外優しいものでした。柔らかい指先ですが、柔らかいわりに乾いていました。右目に舌がもっと割り込みます。レクトがそれを押しのけないのはレクトが優しいからであり、レクトが誰かに必要とされたがっていたからです。

瞼がひっくり返る。顎の奥が浮くような気色の悪い圧迫感がきて、痛む。痛みに吐きそうになる。

レクトは暴れたはずでしたが、そう抵抗できても、きっといません。眼球を吸引され、長い時間かけて舌をくり入れられ、その間に段々と浮っこないものが浮いてくる感覚から逃げない。

いずれ繋ぎ止めていたなにかが噛みちぎられた気もしましたし、それはそもそも自分のものでもなかった感覚も伴います。声を上げたはずです。痛いから。気持ち悪いから。ああ、なるほどと思いながら。喪失しました。シャールを思い出し続けていました。右目は駄々っ子に託された責任の在処でした。惜しかった。胸が痛んだ。最悪な気分とも悲しいとも怒りともつかない衝動が、それを灯すに慣れない感情になんとか現れようと胸の内で悶えています。嫌ではありました。不愉快でしたが、不愉快というほどでもない気もしました。わからなかったのです。レクトにはレクトを自身で決めることができませんから。自身が何を喪失したのかわからない感覚も残ります。気持ちが悪いというほどの湿り気がありません。処置らしく感じたが処置にしては勝手すぎました。だってアーサーはもうレクトを見ていません。まだレクトにはそれを確認できる視界があるようです。
左目はしっかりしていて、アーサーのようなものをとらえていました。見えているので見ましたが、見えていると言って仕舞えば幻覚だってそうですね。アーサーはのけぞります。満足しているみたいだと、レクトには見えました。なら良いかともいくらかは感じて、レクトは宙ぶらりんでした。アーサーは目を閉じています。彼はアーサーではない、レクトはその感覚を、型番の取り違えなのか幻覚だからなのかまでは見破れません。レクトは自身が幻覚の表を裏を間違える気がしていました。


「長い旅だった……」

アーサーはいつの間にかソーダの瓶を手にして、目玉をそれで飲み下したのかもしれません。アーサーの姿をした何かはまだレクトの上です。レクトは、救われたくて、振り解こうとしますが、大した力ではありません。せっかく現れた「先」の役に立てない自身でいたくないみたいに健気に、ゆるく彼の下から逃れようとします。アーサーはそれを全体重をかけて止めます。用事があるのでしょう。アーサーの意思を表していましたから、レクトはまた悩みました。そのままずっと、アーサーはずっと、何か話しています。聞き取れない言葉もあります。彼は低く小さな声で呟いています。悪態にも聞こえて悲しくなります。どうすれば役に立つのか、今から学ぶフェーズに入るのかもしれません。この期に及んでレクトは適応しようとしています。本能です。最初期のポーツ、原初の秘書。与えられた使命の上でしか生きられない道具に、新しい使い道が生まれる瞬間です。救われるかもしれない。レクトは自覚なしにそれと同等の光を掴もうとします。

「躾けられた通りになさい。何もかも、当時の通りに」「参考にするから」

レクトは自分に話されているのだと一度は理解できませんでした。アーサーはレクトの頬をいくらか小さく叩きます。さすがに自分に言われているのだと理解をしても、レクトは言われている意味がわかりません。

「どなた、ですか」

アーサーの姿をした誰かに問います。彼は返事をしません。彼はレクトの衣服を損壊しましたが、極めて用途のわかりやすい箇所のみに手を入れました。だからレクトはそこからは何もわからなくても平気でした。行為が性的な範囲に及びさえすれば、痛みが和らぐことをレクトは知っていました。ここからは楽になる。レクトには存外簡単に本能がよみがえりました。しかしとても久々だったので断片を少しずつ取り戻すみたいに段階的に反応をしました。“躾けられた通りにしなさい。参考にするから。”シャールの右目を呑んで、“参考にするから”明白になりました。レクトは笑いました。仰せのままにと言えるレベルで察しがついて、楽になったからです。アーサーはそれを不愉快そうに見ます。傷ついても合点がいった安心が勝る。だからレクトはありがとうございますといいました。だからアーサーはレクトの首を絞めました、がやめました。行為は順当にひどく、想像を超えません。これを覚えた矢印の先を、シャールを彷彿とさせます。当時のシャールを痛みから解放するため、シャールの気を紛らわすため、
そこまでにはいたらない、ただそれによく似た効能を「目指して」覚えた曲芸です。だからありがとうございますしか適さなくなる。前戯に類するいかなる行為もない簡潔な交尾です。交尾は大抵直接的ですが、シャールと比べるまでもないくらいもっともっと直接的です。揺さぶられると、貫かれていると、やっといよいよ気色悪い心地を取り戻して、自分が気色悪くて、ただし役に立っているならまだなんとか我慢の甲斐があるというものです。いたいがいくらかましで、レクトはのけぞります。いくらかまし。レクトの肉体は収縮したままの穴の壁をさらに内側に痙攣させて、当時はそれは媚びとも堕落ともわがままとも形容されました。懐かしくもあります。やっと、という気持ちにもなります。レクトは沈められる少し前から一度も抱かれていないのです。そして痛みの渦中にあって、幾千の月日の最後のフェーズにて改装の締めくくりという前例のない巨大な穴みたいな役割を前に役割を完全に失ったのと似た形状に変わり果てていました。渇望していたということになります。だからレクトはありがとうございますと言いました。頭部の真横にある、アーサーの腕に思わずすがります。

「きつい」「リラックスなさいよ。弛緩して」「随分イメージと違うわ。媚びてるとしか言いようがない」「彼はギャップを求めたということ?」「すごい期待ね」「これだけわかりやすくなって、やっと、合格なのかしら」「あの人が……童貞こじらせた程度の男が、よく躾けたもんだわ」「ここまで惨めじゃないとだめ?許されなかった?わがままだものねぇ、あの人」「こんなにうるさくても大丈夫なの?」「不愉快だって言われなかった?」

行為は直接的ですが観察を伴ったため、暴力の割にはゆったりしていました。なんで同じなんですか、とレクトは問いました。アーサーはシャールとほとんど同じ意地悪を言いました。それをなんとか伝えると、アーサーは興味深そうに頷きます。犯されると、何もかもが気持ちいいで済まされます。しかも泣き真似ができます。嗚咽が許されます。心から気持ちいい。だからセックスが救いだったのだと今更思い出しました。これで誰かの役に立つようになってしまうとしましょう。すると本当に最も真っ当に真っ直ぐ役に立ちたかった者をおいてけぼりにする、と思いかけたが消えました。懐かしく、気色悪い自己の復活に呑まれます。行為が続く間は、発する音声の詳細を感知できないものです。したくないくらいの内容を癖で口走るように躾けられたから。ただ間違いなく行為の音と共にレクトの声があります。諦めたかったので天井を見ます。天井じゃなくてアーサーがいます。笑ってもいないし気持ちよさそうでもない。ただ観察している。レクトは首を振りました。自身が観察対象としてのみ役に立っていてセックスの相手としては役に立っていないから、レクトはさみしいと思いました。彼が何を望んでいるか理解できるならしたいと願いました。なぜ観察するのかを知りたいのです。知れば望まれるままに振る舞うことができますから。振る舞えばきっと相手はにっこりするはずです。うねらせます。腹に力をいれて尻を持ち上げると、い型の標が恐ろしいほどぬめっています。左手の指が一本ないことに気づきました。あるはずのものに空白があってその空白に触れたからです。薬指がありません。ぬめっているわけはこっちかもしれません。そういえば右目もありません。顔もびちゃびちゃしています。アーサーの態度は冷たいままです。眼光は鋭く、レクトは自分に恨みでもあるのかもしれないと思いいたって、やっと納得がいくほどです。

迷惑 かけましたか、あなたに。すみませんでした、迷惑おかけして

レクトはそれらしいことを言ったはずです。そうしたらアーサーは「癇に障るわ」と言いましたから、だから、かなしい。レクトの知るレクトの歴史の中で、誰の役にも立っていないときはほとんどありません。それがないように、かつての、初めの、すべての、主人であるグレブは、とても気を付けてくれたし、グレブから最後の、終わらせてもらうための主人である、シャールにわたったあとも、指示の通りにして、そして使い切られたのです。どうせ何も察知できず、便利ではありません。せめて出来るだけ哀れでいれば、アーサーの不愉快は最低限で済む。うまくいけば愉快を与えられる。全部シャールが教えたことです。ちょうど体験したことのある痛みの水準まで、脳汁のおかげで戻ったのです。だからレクトは尽くしたい。レクトは最善を尽くしたい。レクトは彼を探しました。彼の目線の先に。その瞬間、アーサーはレクトに問いました。当時のシャールがレクトに何を求めたかを問いました。
何をすると彼の機嫌は良くなったか。きっとシャールに気に入られたいのです。でももう階層果てなのでシャールなんていません。それを教えてあげるべきではないと感じましたから黙っていました。レクトは最後の主人をいまもどこかで主人と感じているのでしょう。仕えたすべての主人を裏切りたくないのでしょう。シャールがレクトでしたひとり遊びを流出させていいのかわからなくて、もっと黙っていました。アーサーは辛抱強くレクトに問います。レクトはわからなくなっていきます。レクトがわからなくなるようにアーサーは問うたのです。

「聞いてあげるのに」アーサーは目を細めます。それに、アーサーはレクトを害すことをきっと厭わない。レクトはかつての主人がそれぞれ真っ直ぐ自身の働きを求め正当に使用したことを思い出して、愛着を蘇らせて、せめて最後の階層をしめくくるに足る肉体を残して保全したいと願いました。役割ならば果たしたい。レクトはブロキマナクを愛しています。総合的に、レクトは口を開きます。個人的な理由もあります。アーサーの目線はひたむきで、レクトには彼を憎むことは不可能でした。アーサーはレクトの言葉を待った。だから彼は行為に伴う動きを一切やめた。

「シャールさんには、」「……必ず」「ありがとうございますを言います。最後に。すれば彼はにっこりした」「にっこりすると、安心して、……」「彼は、僕の安心を操った」「彼は、僕が、単純で扱いやすいから僕をそばに置いた」「使われたければ、シャールさんに?なら、出来る限り、簡単でいればいい」「底の知れるように、いたほうがいい」「それに、彼は、常に、正常であろうとする努力を、僕に求めた」「まともであることをのぞみました

僕が簡単に、シャールさんに流されてしまうのを、シャールさんは望まない。まともなまま、不正を叱るくらいの方が、機嫌が良かった」

「壊しがいがある方がいいのだと……そういったことを、もっと上手に、表現した。どういった文句だったかは、忘れました」

「彼はとにかく、よくわかっていた。僕が役割を必要としていると、よく、よくわかっていた」

「だから、っ僕を……ウスルと、グレブさんから、はなした」「僕は、ウスルにも、グレブさんにも、とても役に立って、役割を賜っていた。親友としてと、秘書として」「役割がなくなれば、僕は、それらの役割と同じモチベーションを、シャールさんにむける。僕の、そういう性質を使った」「シャールさんは、僕の、人生の意味になりかわった」

「そういう調略を、いつも……楽しんでいた」

「僕は……ウスルを、僕の、望まない形で…………愛していたから、それも察知して、楽しそうに、してた」

「僕は、肉体的にも精神的にも、簡素なつくりをしていて、」

「シャールさんはそういう、僕の単純さを、簡単さを、好んで、笑っていました。馬鹿笑いしてました」

「楽しそうにしてくれた」

「シャールさんは、愛おしそうにする演技がとても、うまくて、僕は心酔できた」

「好きに、好きになりそうだった。だって、好きになっていいんだって錯覚させる演技を彼はやった」

「多分、好きになってはいけない、です」

「束縛をとにかく嫌うから。恋されるとか、支配されるとか、そういう」

「支配しようとしたり、好きになっては、彼は、いなくなってしまう。おもちゃを置いて、連れてっては、もらえないし、迎えになんか、絶対、来てくれない」

「シャールさんに恋してしまえば、全部楽になるはずでした。ずっと一緒にいるつもりだった。必要だって言われたから」

「執着したら、諦めたら……一瞬でした。捨てられた 使いつぶして」

「彼は、悪趣味でした。純粋に、本当に趣味が悪かった。彼は心から、意地悪を望んでいた」

「最悪でした」
「シャールさんは最低でした」
「尽くすに値するクズだった」
「僕を使い潰してくれた」
「彼は、彼には……」「僕を、使い切ったのが彼で良かった」「彼は」「僕にはお前が、お前がくずれるのが、心から必要だったよって、」「お前がいてくれて本当に良かった」「お前を崩せた、本当に良かった……」「そう、心から嬉しそうに笑って、満足してくれたから」「後悔しないでくれたから」
「……僕はポーツです」「僕はポーツだから」「使い潰してほしかったから」「だから良かった、シャールさん」
「シャールさんは」「病理の中になければ、清廉です」「規則正しく、日を送る」「自然を愛して、少ない大事な物を、手入れして使って、自分の世界を持ってて、守ってて、思慮を開示しない」「僕は、知ってる」「シャールさんはすごい、幻覚でも嘘でもない」「だから右目を受け取ったんです。きっと。僕が、覚えていないだけ」「尊敬してる。感謝してる。本物のクズでも、尽くすに値する」「シャールさん」

「シャールさんの右目。/

そこで気付いた。気付けば僕は床にいた。

僕は既にひとりらしかった。暗かった。気を失っていた。どこまでかは声に出していて、どこからかは夢だった。目の穴を押さえた。指を入れた。夢じゃない。怖くなって声を出した。

シャールを思い浮かべました。

シャールさんが僕に託した、右目は奪われた。
僕には判断がつかないが、シャールさんはおそらく許可しない
持って行った。
それが何を意味するのかわからない。
目の保持と申し送りが僕に残されたシャールさんへの役割な気がした。
役に立てないのは怖い。動けない。動かなくてはいけない。
ウスルの役にもグレブさんの役にも立てなくなってシャールさんの役にも立てなくなって終わった。
終わったから、残された役割しか僕にはない。役割が増えることはない。
もうひとりだから。
「いなくなった方がまし」
「いなくてもいい」違うと言えなくてはいけない。僕を最後に残すと決めて僕を信じたグレブさんが存在する限り。望む度に害になる。「ウスル、」ずっと。迷惑をかけたくない。何かになりたい。役に立ちたい。使いよくありたい。もっと便利にしてほしい。せめて。『誇り高い紳士を目指してね』グレブさんは言った。僕の健全な幸せを望んで。もう誰も僕を犯してくれていない。から僕は泣くことができない。

レクトはやっと目覚めました。

もちろん誰もいなくて、映画は流れていませんが、真っ暗ではありません。わずかに日が差していて、それでも青く、辱めの名残のようです。

血が見えました。服は壊れていました。

右目も恐らく壊れていて、触るのが怖くてやめました。左手も恐らく壊れていて、見るのが怖くてやめました。泣くべきです。しかしもう誰もレクトを犯してくれていませんから、レクトは嗚咽することができません。目を閉じました。もう一度眠ればいいから。誰もいません。ドアを見ました。視界がよくありません。


役割を果たせない。果たせる。四肢丸ごとなくなったわけじゃない。僕はせめて世界を閉じなければ。時間はたっぷりある。世界を閉じることだけは。それすらできなかったら。

20220222